山の手事情社『狭夜衣鴛鴦剣翅』:構築と脱構築の永久往還運動

 一九六六年十月二十八日から三十日、戸山ハイツ灰かぐら劇場で三日間だけ上演され、たった四十人しか観客が来なかったという状況劇場の野外劇『腰巻お仙・忘却編』、あるいは一九七六年十月VAN99ホールで上演された夢の遊眠社の実質上の旗上げ公演で五ステージしか行われなかった『走れメルス』と同様、二〇〇三年一月下北沢ザ・スズナリ、山の手事情社の『狭夜衣鴛鴦剣翅』上演は、七ステージというその短さにもかかわらず、いやそれゆえにかえって、日本の現代演劇史に残る伝説となった。

 もちろん、歌舞伎も文楽もたえて取り上げなかった並木宗輔による浄瑠璃台本を初演以来二百六十余年ぶりに再演した、ということも賞賛に値するだろう。しかし何よりも、日本人の身体性(というフィクション)はどのように構築されるべきか、というアングラが提起した課題にこたえて、鈴木忠志以降の世代ではじめて一つの説得力のある答えを出しただけでなく、それを身体のレベルから物語のレベルに昇華させて示してみせたことにこの公演の意義がある。

 一九六〇年代後半、唐十郎が「特権的肉体」を、寺山修司が「見世物小屋の復権」を唱え、そして鈴木忠志がのちに鈴木メソッドと呼ばれるようになる俳優の訓練方法を編み出したとき、三人の演劇人の意図するところはそれぞれ違っていたにせよ、目的は同じだった。暗黒舞踏の創始者の一人、土方巽は一九六八年に『土方巽と日本人:肉体の叛乱』というタイトルの作品を発表し三年間の沈黙に入るが、その土方の暗黒舞踏の中に、日本文化の中で育まれてきた身体の技法が西洋のモダンダンスに接ぎ木されていることを見てとった郡司正勝は正しかった。鈴木や唐や寺山もまた、「日本人の身体」を西洋的なドラマの中にどのように表象するかを探り、その結実がそれぞれのスローガンやメソッドになったのだった。

 土方らの暗黒舞踏は、その土俗的な装いとは裏腹に、西洋のモダンダンスがつねに問題としていた「表現の強度」を獲得しようという志向において二十世紀の芸術思潮としてのモダニズムの潮流に位置づけられるものだった。西洋の美学の基準から大きく逸脱した「醜い」日本人の身体をどのように見せるか、という問いが、白塗りの裸体、体を痙攣させ舞台を這いずり回る仕草、といった舞踏の独特の語法を生み出した。その異様さに衝撃を受けた観客は美醜の判断基準を忘れ、価値転倒的なものを好むカウンターカルチャーの独特の空気の中でその「表現」に拍手を送った。抑圧されていた内なる欲望が突然、外に表出してくる(ように見える)という意味で暗黒舞踏とはまさに「表現」に他ならず、再現的な舞台芸術が到達できないような「強度」をもって観客に迫ってくるものであった。

 麿赤児、四谷シモン、大久保鷹といった「怪優」たちの「特権的肉体」を、内なる劇的想像力を肉体を通して舞台に現前させるものと定義づけた唐十郎や、小人、太った女といった「異常な」身体を持った素人を舞台にあげた寺山修司、能役者のように腰を落として摺り足で歩く訓練を通して下半身に重心を置く日本の伝統的な身体技法を現代演劇に取り入れようとした鈴木忠志のいずれもが、戯曲に書かれた言葉ではなく、言葉では説明不可能な過剰さを抱え込んだ俳優の身体を通して舞台芸術における表現の強度を探求した。

 その際に合い言葉のように用いられたのが「日本人の身体」という概念だった。文化や社会によって身体は「構築される」、すなわち文化や社会は身体の外部にあるものとして、身体が持つさまざまな特性の発現を促進したり阻害したりする(中国の古い慣習である纏足や西洋の女性が着用したコルセットを見よ)だけでなく、身体についての自己認識の根拠となる思考の枠組みを提供することで身体をいわば内側から変えていくと考える構築主義的身体観からすれば、暗黒舞踏やアングラ演劇のように文化や社会の制約を超えて普遍的/無時間的に存在する「日本人の身体」の存在を想定することは単純な誤謬である。だがその一方で、「日本人の身体」が一つの仮構されたフィクションとして成り立ち、その限りにおいて一定の影響力を行使したこと、そして表現の強度を追求する際にその到達目標として失われた日本人の身体を回復することが唱えられたことは、たんなる歴史的事実として正しいばかりでなく、まさに身体なるものが自然なものとしてあらかじめ存在するのではなく、言説によって構築されていくものに他ならないことを示している。

 ところが表現の強度に対するドグマティックな信奉は、二十世紀の三・四半世紀をすぎた頃、ポストモダニズムといわれる芸術理念の中で問い直されることになる。芸術表現にとって「衝撃を与えること」「真に迫ること」は本当に必要なのか。あるいはそれはたとえば、十九世紀半ばリヒャルト・ワーグナーが唱えた「総合芸術」概念がナチスによって利用されることで、美学的強度と政治的強度が等価のものとして結びつけられる危険性をすでに露呈してしまったのではないか。コミュニケーションの相手の「懐に飛び込む」こととは、その勢いによって相手を判断停止の状態に追い込み、芸術鑑賞を一種の洗脳とすることになってしまわない

 その一つの解答が「脱力系」とよばれる一連の(ポスト)モダンダンスの登場であり、日本では一九九〇年に結成された珍しいキノコ舞踊団をその代表格として、最近の若手のカンパニーの多くがこの傾向を多かれ少なかれ帯びるようになった。「美しい」「格好いい」身体とその動きを見せるのではなくて「みっともない」「だらしない」身体とその動きを提示すること。規律や速度、力強さとは対極にある、「お気楽さ」や「まったり感」、肩の力が抜けた雰囲気を醸し出すこと。自分の裡にあってやむにやまれぬものを「表現」「表出」しようと意気込まずに、ただ舞台に佇むことで世界に対する距離や違和感を示してみせること。それが「脱力系」ポストモダンダンスのモダニズム美学に対する批評的戦略であり、往々にしてそれはパロディというかたちをとることになる。

 しかし当然のことながら、本当に訓練されていない日常的な身体が舞台に登場しても観客は退屈するだけだし、そうかといってダンサーたちがわざと下手くそに踊れば興ざめである。ことさらに装うことをしない、表現しないという「脱力系」ポストモダンダンスの戦略はしたがって、何よりも心構えの問題として理解しなければならないだろう。「脱力系」ポストモダンダンスの舞台において、ダンサーたちの身体があまり「脱力」しているように見えないのはそのためである。技法的に高度なものを持ちつつも、それをこれ見よがしにひけらかすこともせず、わざと隠すようなこともせず、「さり気なく」披露する。それが「脱力系」モダンダンスの踊り手たちに与えられた(心理的)課題である。とはいえ、そうやって提示された「さり気なさ」もまた装われたものにすぎないことを考えると、「表現しない表現」の成立する余地はきわめて限られたものであることは理解できるだろう。

 一方演劇において日常生活の延長に位置するような身体を舞台に持ち込むことは、九〇年代における「静かな演劇」の流行とともに定着した。その代表格の一人である岩松了は、もともと劇団・東京乾電池の座付き作家であり、すでに八〇年代から東京乾電池は俳優の弛緩した身体を意識的に用いて独自のリアリズムを目指していたが、それ以外の劇団では、意図的にというよりもむしろ俳優が訓練されていないゆえにやむをえずそうした戦略をとったところがほとんどであった。

 その中にあって山の手事情社は、「四畳半」という型を通してアングラが問題にした「日本人の身体」というフィクションを構築しようとしてきた。「四畳半」の型そのものが鈴木メソッドの一種のパロディであることは指摘するまでもあるまい。腰を落として重心を低く安定させることが鈴木メソッドの要諦であるとしたら、重心をずらして立ち、奇妙に身体をくねらせることを俳優に要求する「四畳半」は、最初から「脱力」している。しかし「四畳半」は同時に規則に従って身体を動かすことを要求する厳格さを俳優に求め、そのことによって表現の強度を得ようとしている点で、鈴木メソッドと同様、モダニズム美学に立脚している。

 この二つの相反する方向性を抱え込んだ「四畳半」という型は、珍しいキノコ舞踊団のダンスがそうであるように、見ている者のうちに一種の乖離、ずれの感覚を生じさせる。構築と脱構築が同時に行われることに対する混乱とひそかなおかしみ。私はかつて「四畳半」の型をウィーン楽派の十二音音楽やキュビズムにたとえたことがあるが、ここでその見解を多少修正しなければなるまい。すなわち、日常的な感覚に基づいて組み立てられた「自然の」規則(調性や遠近法、「自然な」身体)を否定し、人工的な規則に基づいて構築するという点で「四畳半」は十二音音楽やキュビズムと共通点を持っているが、それらと決定的に異なる点は、真面目にやられていながらどこかおかしさを感じずにはいられない、ということだろう。「日本人の身体」なるものがフィクションであることを知りつつもそのフィクションを信じ込もうとする、しかしやはり心のどこかでその有効性を疑わざるを得ない観客と俳優の共犯関係において、「四畳半」という型は成立する。

 かつて森鴎外は『かのように』において、「意識した嘘」、神や世界における絶対的な存在を「あるかのように」信じなくてはいけないかどうかを登場人物たちに議論させた。評論家柄谷行人は西洋における「建築への意志」を指摘し、日本の文化におけるその欠如について論じた。構築へのためらいを日本近代の文化がつねに示してきたとすれば、山の手事情社の演技スタイルもまた同じ潮流に属する。

 『狭夜衣鴛鴦剣翅』の舞台は紗幕によって観客席と隔てられていた。そのせいで靄がかかったように見える舞台の奥の暗がりで、俳優たちは重力に逆らって奇妙な動きをする。だからといってそれは重力に対する反抗というほどには力強くはなく、重力としなやかに戯れているように見える。彼らはもつれ合い、互いに顔を見合わせるとすぐにあらぬ方向をぷいと向き、また観客のほうを向いて睥睨し、そのまま後ずさりし、太平記にもとづくお家騒動をときには滑稽にときには悲劇的に演ずる。そこで俳優の身体を通して構築されつつ解体されていくものは、ドラマというよりむしろ歴史だった。まとまりのある、構築物としてのドラマではなく、何かを構築しようとする意志を持つ者同士が戦い、ともに敗れて退場し、廃墟だけがあとに残る場としての歴史が、スズナリのきわめて狭い舞台空間に出現していた。

 原作者並木宗輔がそのことを意識していたかは定かではない。もちろん、西洋的な意味でのドラマの構築性などははなからないはずだが、俳優たちの絡み合う身体が歴史そのものへと変貌を遂げていくことまで予想していたかどうかは疑わしい。しかし紛れもなく、私がそこに見たのは身体が物語となり、構築と脱構築を永久運動のように続けながら、歴史になっていくその過程であった。

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One Comment

  1. Posted 2005/03/10 at 20:59 | Permalink

    公演評を集めているWonderlandサイトの北嶋孝@ノースアイランド舎と申します。2年前の公演ですが、こちらのサイトで紹介させてもらいました。
    http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000283.html
     Trackbackがないので、コメント欄にかきこみました。これからもよろしくお願いします。

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