坪内逍遙の「アマチュアリズム」:「手仕事」としての学問

津野海太郎『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(平凡社、二〇〇二年) は早稲田出身者によって祭り上げられてきた感のある坪内逍遙の偶像破壊に一役買った。これと、以下の戸板康二『対談日本新劇史』に収録されている秋田雨雀の評言、そして亀井秀雄「森鴎外の作品と人間像」の以下の説明を併せて読むと、学者としての逍遙の「アマチュアリズム」が浮き彫りになる。

鴎外のように先学の徒の業績の上に自分の思考を積み上げることを逍遙はよしとせず、自分の生活に根づいた知を得るために、自分で一からものを考えようとする。それゆえにその思考には穴も多く、その仕事には「失敗」(津野)も多い。ポローニアス同様、当然知っているべき文脈を理解できずに「間抜け」に見えることもあったろう。

とはいえ、学者としては「優等生」で終わる危険があった鴎外は結局自分でものを考え(られ)る場として小説を選びとるのに対し、逍遙は「手仕事」としての学問の有効性を信じていたがゆえに最後まで「学者」であり続けた。

秋田 古い制度の中にはいっていても、新しいものをやろうという考え方は[鴎外]にはあったので、「進歩性」は認めていいことですね。私は逍遙よりは鴎外が好きですね。逍遙の方はなんて言いましょうか、フェリステン的[注:Philistine(凡俗な人;俗物;(芸術などに無関心な)教養のない人)]と言ったら[逍遙の弟子の英文学者]本間久雄君が怒ったことがあった。片っ方は近代的な一種の親分で、片っ方は道学者、逍遙はその点で島村さんとぶつかったわけです。
戸板 先生は、いつか「逍遙っていう人は『ハムレット』のポローニアスみたいだ」とおっしゃっていましたが……
秋田 そうです。近代的な理解のある人だったら、あの喧嘩[鴎外との没理想論争]も起こらなかったでしょう。それは田山[花袋]さんも批評していますね。
戸板康二「秋田雨雀の巻」『対談日本新劇史』(一九六一年)一二頁

V.逍遥との論争

 しかし、彼の論争癖は止まることを知りませんでした。 彼は非常に対抗意識が強く、相手を、官僚組織や学界に隠然たる勢力を持つ、権力主義者に見立てて、これを非難する。そういう性癖が彼には見られます。彼の上司だった石黒忠悳(ちゅうとく)に対してもそういうところがあり、石黒忠悳としては迷惑を覚えたことも多かったでしょう。

 文学の領域においても、彼は、坪内逍遥の「シェークスピア脚本評註」(明治24年10月、『早稲田文学』創刊号)に対して、ほとんど言いがかりに近い批判、「早稲田文学の没理想」(明治24年12月、『志からみ草紙』)を書き、いわゆる没理想論争にまきこんでいったわけですが、ここでも同様な点が見られます。

 彼は逍遥を批判するに当たって、「逍遥の影響が拡がって、いまや文壇の一大勢力になりつつあり、それはそれで結構なことであるが、ただ、理論的におかしいところが見えるので、敢えて批判しておく」という意味のことわりを述べています。それはそれなりに一応筋の通った言い分に見えますが、当時の逍遥はそんなに大きな存在ではありません。現在の文学史では、『小説神髄』と『当世書生気質』は特筆大書されますが、これは後世からの整理によることであって、その頃はまだ滝沢馬琴の読本や、為永春水の人情本の系統、そして政治小説などのほうが、圧倒的に人気を誇っていました。文壇的に言えば、逍遥はまだまだ小さな存在でしかありませんでした。

 それに、鴎外が攻撃対象とした、逍遥の「シェークスピア脚本評註」は、このタイトルから分かるように、逍遥がシェークスピアに関する講義録を『早稲田文学』に連載するに当たって、評釈の方針を説明した、ごく短い文章にすぎません。「ここでは、自分の理想(文学上の理念)を掲げてシェークスピアを論評するのではなく、できるだけシェークスピアの世界が客観的に現れるようにしたい」と。ところが鴎外はその言葉尻を取り上げて、逍遥は「理想」を否定して、「没理想」を説いている、とあげつらったわけです。そしてドイツの哲学者・ハルトマンを烏有先生と呼び、その『美学』を逍遥の理論にあてはめて、逍遥の概念の曖昧さや小説論の浅さを指摘しました。

 これには逍遥も驚いたでしょう。自分は文学論などやるつもりはなく、講義録の読者に評釈の方針を語っただけなのに、いきなり後ろから殴りかかられたようなものです。びっくりした逍遥が、あなたのいう烏有先生とは誰のことか、と質問したところ、鴎外は「ハルトマンを読め」としか答えない。無茶苦茶な言い分ですが、それならば鴎外はどこまでハルトマンを理解していたのか。神田孝夫の「森鴎外とE・ハルトマン――『無意識哲学』を中心に―」(長谷川泉『比較文学研究 森鴎外』昭和53年、朝日出版社)によりますと、鴎外がドイツ留学中に読んだハルトマン関連書は、J・J・ボレリウスの『現代独仏哲学瞥見』であり、鴎外が所持していたハルトマンの『無意識哲学』は1890年(明治23年)版だった。だから、鴎外はまともにハルトマンを読んでいなかったのだ、とまでは断定できませんが、実情はボレリウスという人の解説に頼っていたすぎないように思われます。

亀井秀雄「森鴎外の作品と人間像」(二〇〇二年十二月七日、北海道日独協会)

…さらにいえば、自分の個性を研究に刻むのが本物の(人文科学分野における)「学者」であるという誤ったイメージが広まったのも、もしかすると逍遙のせいかもしれない。逍遙は「滑稽」だが「巨人」だった。しかし(天に向かって唾をするようなものだが)先学の徒が築き上げてきたものと正面対峙することを避け、そのときどきに「流行」している学説を不完全な理解のまま「紹介」し取るに足らない「自分の考え」を付けくわえることでお茶を濁すという幾多の「矮小な」文学研究者たちは滑稽ですらない。

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館直志『わてらの年輪』(一九六四)の盗作疑惑について

『さらば松竹新喜劇 天外・寛美と過ごした日々』(情報センター出版局、一九九三年)は、一九六〇年から六七年まで松竹新喜劇学芸部に所属し、脚本を執筆した藤井薫(一九三三〜)による内幕暴露もの。中でも注目すべきなのは、天外のペンネームである館直志名義で発表され、一九六四年八月に日生劇場で上演された『わてらの年輪』が、藤井が一九六一年に書いた『乱れ友禅』を下敷きにした、という記述である。その前年開場したばかりの日生劇場で、花柳章太郎・中村鴈治郎・中村扇雀・小林千登勢らが出演した三時間半の大作であり、その年代に書かれた代表的戯曲を収録する『現代日本戯曲大系 第六巻』(三一書房、一九七一年)にも収録されているこの作品が「盗作」だった、ということは三田純市『上方喜劇 鶴屋団十郎から藤山寛美まで』(白水社、一九九三年)などには当然記されていない。

なお、この二冊は同年に出版されているが、『さらば松竹新喜劇』は四月、『上方喜劇』は十月だから、三田は藤井の本を読みその真偽を検討するだけの時間はあったろう。よしんばその時間がなかったとしても、すでに藤井は『素顔の喜劇王 楽屋の独裁者』(恒文社、一九七六年)という小説仕立てで人名・作品名をすべて仮名にしながらも同じ事情について触れているので、このことは三田の耳にもすでに入っていたことであるはずだ。

『さらば松竹新喜劇』によれば、「真相」は以下のとおり。『オール読物』の「大衆演劇「一幕物」脚本募集」に応募するため、藤井は「その頃たまたま見た『楡の木かげの欲望』という、アメリカ映画にヒントを得」(一三三頁)て、昭和初期の京都の友禅染め屋を舞台に、舅と未亡人となった嫁とが関係するという物語に書き換えて『乱れ友禅』を書いた。選考委員は北条秀司・川口松太郎・菊田一夫・中野実の四人で、北条は激賞したが、他の三人は「最後に若い未亡人が愛の証のために自分の子供を絞め殺すという点に無理がある」という理由で最終予選止まりになった。北条が「この脚本が入選しなくても、自分の手でどこかの大劇場で絶対に上演できるよう、尽力する」と言っていると『オール読物』の婦人記者から聞かされた藤井は、新橋演舞場公演の折に鎌倉の北条宅を訪ねるが不在。その帰り道「子供を殺す点を書き直せば、松竹新喜劇の二本目ないしは三本目の狂言として上演可能なのではないか」(一三五頁)と思い当たった藤井は一ヶ月あまりかけて書き直し、「ラストの若い未亡人が自分の赤児を殺すシーンや,自ら首を吊る場面もカットして、最後は舅と結ばれるというハッピーエンド」(一三六頁)にして、天外に提出した。音沙汰のないまま一ヶ月ほどが過ぎたとき天外から呼ばれ、「あんたの今度の脚本な、あれワシがやったげる」「四月の中座公演でワシがやったげる」と言われて天にものぼる心地になった(一三九頁)が、三月五日か六日頃に、文芸部長の星四郎から、日生劇場の書き下ろし脚本を書きあぐねている天外が『乱れ友禅』を下敷きにしたいと言っている、と聞かせれて愕然とする。

もっとも、藤井も「なるほど『乱れ友禅』が大幅に書き直されている、と言えば言えなくもなかった。登場人物たちの名前もみな変えられている。しかし舞台が京都の友禅染め屋であることや、主な登場人物の設定などは『乱れ友禅』とほとんど変わっていなかった。ただ「具」がやたらと多くなっているのが目についた」(一六一頁)と認めているので、これが盗作であるかどうかは簡単には判断できない。『乱れ友禅』は『オール読物』でゲラになっている(一三四頁)とのことだから、どこかにそれが保存されていたりしないか。

藤井がヒントを得た「『楡の木かげの欲望』という、アメリカ映画」はユージン・オニール『楡の木陰の欲望』Desire Under the Elms (1924) をソフィア・ローレン主演で映画化したもの(一九五八年五月公開。同年六月に日本でも公開)だ。妻に死なれた老人エフレイム・キャボット(Ephraim Cabot)が後妻として迎えた若いアビー(Abbie)が夫の三人の息子のうちでもっとも若いイーベン(Eben)と不倫をする、という物語だから、「舅と未亡人となった嫁とが関係する」ではあべこべになるが、これは藤井の記憶違いだろう。戯曲でも映画でもアビーはイーベンの歓心を買うために赤ん坊を絞め殺す。

一方、『わてらの年輪』では、染工所を経営する六十三歳の竹森栄吉(中村鴈治郎)が二十四歳のすみ(小林千登勢)を後妻に迎えたところから物語がはじまる。妊娠したすみは、結婚前に交際していた染工三浦利弘(中村扇雀)のことが忘れられず、中絶をはかるも手術に失敗したことでそれが露見する。栄吉は旧知の仲である材木商鈴木八重(花柳章太郎)の強い勧めですみを実家に帰らせることにする。八重の口からすみは想像妊娠していただけであることが最後に語られる。たしかに「ハッピーエンド」にはなっているものの、藤井の『乱れ友禅』と違い、舅と結ばれるのではなく、若い恋人と結ばれることが示唆されて終わるので、「大幅に書き直されている」ことは間違いないようだ。

なお、藤井自身も記していることだが、天外は一九六四年ごろ『週刊朝日』に「喜劇半生」というエッセイを連載している折りにこの「盗作疑惑」について自ら言及し、藤井の名を挙げて「事実無根もほどほどにしてほしい」と断言している。『笑うとくなはれ』(文藝春秋、一九六五年)に再録された該当箇所を以下に引用する。

私はいま、クレージー・キャッツ的表現によれば、いささかトサカに来ているのである。

東京の友人から、気をつけろ、お前の作品にとかくの噂が立っているらしい、つまり代作とか盗作である、八月、日生劇場で上演した「わてらの年輪」もその疑いがある、などと言う人間が居る。曲解されてどっかの記事にならない先に調べて見たらどうだ、との手紙である。
脚本を書出して四十年、ちょっとやそっとの悪評には動じなくなっている積りだが、ふりかかる火の粉は払わずばなるまい。闇討ちならムザムザとうたれる手はない。

煙の立ったあたりはこの辺かと問合わせて見ると、火元は私たちの劇団の文芸部の一人じゃないかというのである。

古川柳そのままの、捕えて見れば……であるから、呆れ返った話である。疑われた本人はもちろん否定する、こっちも確証がある訳じゃないから叱りつけることも出来ない。

この藤井君が書いた脚本が未熟でもう一歩であったから、私が徹夜で書直して本人の作として上演してやったことはあるが、代作どころか訂作さえさせたことはない。

つまり無名作者の彼のため私が代作されて彼の名で発表したといっていい。その脚本名は「残された女」、事実無根もほどほどにしてほしいものである。

どこからどんな目的で出た噂か知らないが、笑ってすますには、すこしばかり背筋が寒くなる話である。知らせてくれた友人にその由を伝えると、「木が高くなると風当たりが強くなるぞ」と返事が来た。滅相もおまへん、そこまで私たちの劇団も私も思い上がっていない積りである。これからは足元はしっかり見て歩くことにする。

「《第五話》二足のわらじはいけないという話」『笑うとくなはれ』五一—五二頁

なお、『現代日本戯曲大系 第六巻』の無署名の「解題」に掲載されているスタッフ・キャスト一覧は不完全である。『日生劇場の五十年』によると、以下の通り(*が『現代日本戯曲大系 第六巻』では省略されている)。『さらば松竹新喜劇』に藤井が書くように、藤井が演出助手筆頭で入っていることがわかる。

『わてらの年輪』(三幕)・主催 日生劇場・公演回数 30回

[スタッフ]

作・演出 渋谷天外
装置 伊藤熹朔
照明 篠木佐夫
音楽 服部良一
制作 寺川知男*
演出助手 藤井薫・水田晴康*
舞台監督 鈴木敬介*
同助手 岡島健造・平井靖人*
音響調整 木村実*
大道具設計 川島義雄*

[キャスト]
鈴木八重(花柳章太郎)
竹森栄吉(中村鴈治郎)
すみ(小林千登勢)
三浦利弘(中村扇雀)
川崎(花柳喜章)
本田康江(賀原夏子)
中原万次郎(中村松若)
喜代(酒井光子)
石本(金田竜之介)
畑中(春本富士夫)
久居(嵐みんし)
津田(松波加津男)
井上(河内鏡子)
木下(中村鴈好)
南(緋多景子)
半沢(中村富三郎)
さだ(花恵博子)
西(成田菊雄)
松本(中村扇駒)
出前持(山田日出子)*
郵便貯金の集金人(中村扇花)*
使いの若い者(中村鴈三)*
川廻りの男(中村扇二郎・中村松弥・中村鴈松・松美はじめ・中村扇也)*
通行の女(墨律子・小笠原光代)

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かたばみ座の意義について

…かたばみ座に「若いお客さんの歌舞伎研究の一助」という意識があるとは知らなんだ。しかしそのこととは別にして、この新聞記事を書いた記者がどこまで演劇に詳しかったのかはよくわからないな。松竹の息のかかってない在京劇団って、前進座をはじめ他にいくつもあっただろう。そもそも花月劇場は複数の劇団の根拠地だし。東宝(と吉本)は在京でないという判断なのかもしれんが。以下、引用は『讀賣新聞』一九五二年九月一二日夕刊四面。

独立劇団の生態
かたばみ座☆花月劇場

芝居といえば松竹ということになるが、いま東京に松竹の息が全くかゝっていない劇団が二つある。かたばみ座(浅草松屋五階)と花月劇場(六区)の剣劇だ。どちらも苦しいヤリクリをしながらほんとうに芝居を愛する人々に支えられ、真面目なファンをもっている。以下はその生態—。

苦しい乍らも結束
常連の愛情に育まれ
かたばみ座
かたばみ座が編成されたのは廿四年の春、博覧会跡の都民文化館(上野池の端)に板東鶴蔵を中心に松本高麗之助(顧問格)板東薪車、板東竹若などが集まって結成され大歌舞伎では上演しない珍しい狂言を並べて特異な存在になったが、この劇場が焼失、現在の建物に移ったのが去年の二月、その後沢村小主水、片岡右衛門、沢村亀音らの参加があり現在は卅三名の座員を擁している。これが一日二回興行、入場料は百五十円(半分税金)で入場者は二百あればいゝ方。その乏しい収入の中から大道具、小道具、衣装、カツラ、宣伝費などの一切をまかなわなければならないので役者たちの給金は知れようというもの。
 そこで松屋から宣伝のため援助費が出ているといううわさを須田支配人にたゞすと、『松屋とは別に関係はない。このビルも東部電鉄の所有だから、われわれは東部から借りているわけだ』と否定する。彼らの赤字は放送と毎月末の地方巡業によってカバーされはするが定給はないので生活は不安定。しかし座員は堅く結束してさながら小さな共和国というかたち。座員や家族の病気の時などは各自の給料をさいてこれを助けている。
 わずかな入場客の大半が常連で物質的、精神的に援助してくれるという。深川のI氏(某会社重役)は場内に飾る久寿玉七つを一週間ごとに新しいのと取換えてくれ、月に二回は必ず一万円を楽屋に届けてくれるという。高麗之助びいきの埼玉県の老婆は、狂言の替わり目ごとにボタ餅を重箱へつめてもってくる。これは高麗之助の甘党を知っているからだが、黙って案内ガールに重箱を預けて、終演後はまた重箱をもらって帰る。従ってこの老婆の名前はだれも知らないということである。
 若い役者連は給料こそ少いが一日に五役も六役も演れるというが魅力で創立以来やめた者はない。かえって大歌舞伎の大部屋連が入座を希望してくるという。座長の鶴蔵は『苦しいけれど、若いお客さんの歌舞伎研究の一助にもなればと思い、またお年寄りの郷愁に応える事にもなるので舞台は楽しい』と相好を崩す。

板挟みの座長(梅沢大江)
月給=中堅以下で六千円前後
”大入袋”は過去の夢
花月劇場

 花月劇場の場合は平和興行会社に属する梅沢登、金井修、不二洋子の一座や鈴鳳劇有限会社の大江美智子一座が交互に出演している。どちらの会社も往年の篭虎興行部の分身で、社長はいずれも創設者法良浅之助氏の三男と四男、劇場の所有者吉本興業の歩合で、劇団は会社から社長に月給が支給され、座長はこれを座員に按分して支払う。そのため座員を増やせば、座長の取り高は少くなるが、人手不足ではいゝ芝居は出来ず、座長は苦しい訳である。現在、梅沢…(一部欠落)…中堅の座長で四、五万円が精々。従って中堅以下は月給六千円程度。
 これでは苦しかろうといえば大江一座の青年部の福岡美津夫は『飯と宿はついて回り、布団屋か蚊帳の心配はいらず、風呂はたゞ。小遣がなくなれば座長に借りるから、こんなノンキな商売はない』と語る。大江美智子一座となれば座長一人が看板なので、彼女が休めば休演しなければならず、六十名の座員を抱えて風邪でも腹痛でも三六五日休んだことはないという。
 浅草で面白いことは大入り袋というものがなくなったこと。土地の顔役やヤクザにも出さなければならず、それではキリがないというので廃止された。したがって、盆や正月の下回り役者のさゝやかな夢はけしとんでしまった。

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Welcome to Tanino’s Hallucinatory Theatre

An English program notes prepared for Niwagekidan Penino’s “The Room, Nobody Knows,” toured in Luzern, Switzerland, and Helsinki, Finnland in 2012.
庭劇団ペニノ『誰も知らない貴方の部屋』ヨーロッパ公演のために書かれた英文プログラムノート。

Like many great theatre directors, Kuro Tanino is a clairvoyant. Unlike many, however, he has created the sets, scenery, and properties of his theatre company, Niwagekidan Penino, since its founding in 2001. Tanino’s small theatre, which accommodates no more than thirty people, is an illegally converted apartment in an old residential building in Aoyama, one of the most fashionable streets of Tokyo. More than a month before the productions, Tanino and a few company members begin furtively to bring various objets trouvés to it, to assemble mechanized devices, and to do carpentry, fearful that annoyed neighbors may report suspicious midnight constructions to the police. (Do not be alarmed: one resident, curious to know what was going on, attended a performance and came back home greatly impressed by Tanino’s artwork.)
Tanino’s monomaniac craftsmanship is enabled by his literal in-residence commitment to the apartment theatre. Generally staying up until the wee hours, this perfectionist continues to make subtle, almost indiscernible, last-minute adjustments so as to maximize the effects that he intends. He tinkers with not just lifeless objects. One actor likens Tanino’s rehearsals to military drills, since the director makes actors repeat their performances without explaining how they can improve, until he finds them satisfying. Perhaps he himself does not know how they can. Just as painters conduct endless experiments with compositions and colors before they are finally satisfied, Tanino, who had once aspired to be a professional painter before he pursued a medical career, puts in a lot of time casting his wild, shifting imagination into a mold.
“The Room, Nobody Knows” (2012), a fifty-minute Wunderkammer experience, is the third work created and premièred in The Ark, the apt name given to Tanino’s apartment theatre by Yukichi Matsumoto, another representative Japanese theatre artist with a visual slant. Just as in “A Small Restaurant in Limbo” (2004) and “An Adult Picture Book That Itches” (2008), the minuscule stage abounds in strange living things that may or may not have survived a catastrophic event. As the title of the first play suggests, the characters may be already dead and wandering eternally, yearning for salvation, since they look inert and inanimate, like objects whose presences sometimes seems to overwhelm the subhuman figures on stage.
Although all the cranky characters and the outlandish mise-en-scène are fathered by Tanino, the perennial student, the pig and the sheep, the main characters of “The Room, Nobody Knows” and “An Adult Picture Book That Itches,” have models. A psychiatrist who has just given up a practice to focus more on his career as a director, Tanino had a client, a high-school student, who complained of visual hallucinations. After repeated failures to pass the entrance examination to a top-class university, the client was induced to see a pig and a sheep where there were not any. Imagining the psychic burdens that the client must have suffered under stress, Tanino created the two plays as he would set up sand play therapy sessions, which allow clients to see their problems more objectively in miniature replicas of real life situations.
In both “An Adult Picture Book That Itches” and “The Room, Nobody Knows,” the perennial student, played by the middle-aged Ikuma Yamada in his ill-fitting high school uniform, keeps failing university entrance exams until his early forties, but he still listens to a radio course and opens a drill book, however absentmindedly. He imagines a pig with circle eyeglasses and sheep with a grotesquely protruding tooth, both of which speak as unnaturally as the cartoon characters in animations of fairy tales. Their presence indicates that he wishes, on the one hand, to belong to a carefree and sex-free world of children. On the other hand, the student is beset by his own, unsatisfied sexual desires, the more so because he is supposed to concentrate on his studies. Thus, the pig and sheep tend a variety of penis-like objects that dominate the upper stage, unconsciously seeking to combine these two incompatible desires.
In “The Room, Nobody Knows,” Tanino takes a new turn. As if to demonstrate the hypothesis of a heterosexual–homosexual continuum, the perennial student directs the object of his sexual fantasy to his older brother, whom he adores and reveres with all the innocence of a young child. His sexual desires are polygonal; homosexual, incestuous, and fetishistic, since he caresses the four plastic-head dummies that he has created as presents for his brother’s birthday; he places different wigs on them, raving about the beauties of his brother. The four dummies with appropriate wigs illustrate, respectively, how artistic, how revolutionary, how feminine, and how pop he is. With its two-tiered set that is a thinly disguised epitome of the Freudian structure of the psyche, “The Room, Nobody Knows” shows that one’s sexual desires are more complex and interconnected than one tends to think.

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馬生における超自我

「かたり」と「はなし」の往還運動が落語の本質だが、「はなし」で自意識を持て余す落語家は多い。談志は枕で自意識を相対化する視点を同時に語ってみせ、すぐさま「かたり」に移ることでこの問題を解消した。志ん朝にもそういうところはあったが、馬生は自意識がもたらす屈託をフロイト的な意味でのユーモアに変えてしまう。超自我の介入という点では談志も同様なのだが、馬生の超自我のほうがずっと暗く、厳しい。それでも「自意識を持つがゆえのお前の苦しみなどちっぽけなものだ」とユーモアまじりに言い聞かせる馬生の超自我を観客は楽しんだ。

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「えんげきのぺーじ:一行レビュー」再録:1999年

12/ 3-12/23「雪やこんこん」(こまつ座)@紀伊國屋ホール
★★★★ 12/21 「さあどうだ見てくれ、感動してくれ」と客と対決する「西欧型」の演劇ではなく、いつの間にか懐に入り込んで武装解除してしまう。よくも悪くも「日本」的な芝居にキムラ緑子がよく似合っていた

11/25-1/9「令嬢ジュリー」(TPT)@ベニサン・ピット
★★   12/06 若村麻由美の生真面目さが裏目に出た。無名塾出身者は仲代のシアトリカリズムこそを見習うべきだ。

12/ 4-12/12「マリアの首」(俳優座劇場プロデュース)@俳優座劇場
★★★★ 12/06 鐘下の演出の才能を見直した!アングラ以降の歴史を踏まえて新たな田中千禾夫像を見事に提示している。

11/ 6-12/26「パンドラの鐘」(NODA・MAP )@パブリックシアター
★★   12/01 役者もセットもいいけれどホンが浅い。戦後民主主義の申し子野田に、心情左翼のセンチメンタリズム以上の政治性を期待するのは無理なのか。

11/13-11/29「天皇と接吻」(燐光群)@ザ・スズナリ
★    12/01 齋藤憐「グレイクリスマス」をかなりパクっているところがね。坂手はオーバーワークではないのか。

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「えんげきのぺーじ:一行レビュー」再録:2000年

12/20-12/31「さよならだけが人生か」(青年団)@こまばアゴラ劇場
★★★★ 12/22 「東京ノート」や「ソウル市民」のようなマスターピースとはまた違った味わい。初期平田の方法論だった「リアリズムもどきの気持ちの悪さ」が新人の俳優たちによって戻ってきている。

12/ 9-12/24「ゴドーを待ちながら」(佐藤信演出)@パブリックシアター
★    12/15 今これをやる理由も思いも伝わってこない。佐藤信はもう芸術監督を引退し若手に道を譲ったらどうか。柄本や片桐はいりもこんな使われ方をしてかわいそうだ。

11/25-12/ 3「将来への不安/ファーブル…」(猫ニャー)@シアターモリエール
★★★★ 12/03 ついにここまで来てしまったか。悪意の底知れなさでは松尾スズキを凌駕し、物語の制度から逃れるという点では鴻上尚史をいとも簡単に乗り越える。引用の重層性という点では同時代にシェイクスピアや河竹黙阿弥を見たらかくやと思わせる。あとは観客がついてくるかどうかだ。

11/29-12/ 1「LOVE POTION 」(ロマンチカ)@六本木biburin
★★   12/02 制度化されたエロチシズムから逃れるのは難しい。原サチコだけが光っていた。

11/10-11/12「Dolly c/w 砂漠の内臓」(H・アール・カオス )@パブリックシアター
★★★★ 11/11 ドリーは振付が音楽につきすぎてダサい。電飾も安っぽいし。砂漠の内蔵はいかにもヨーロッパで受けそうな内容。うまいし、オリジナリティもあるのだが、日本を感じさせるものがまったくないというのは成功なのか失敗なのか。

10/11-10/29「コリオレイナス/リチャード」(レイフ・ファインズ出演)@赤坂ACTシアター
★★   10/29 よくも悪くも正統派の演出で、人気のないこの二演目をわざわざ選んだという意気込みが伝わってこない。マイクの残響が長すぎるので、とくに後ろの方の席では一つ前の台詞と重なって響きが濁ってしまう。もっと音響は気を遣ってほしい。

10/26-11/ 5「イリュージョンコミック」(演劇集団円)@シアターX
★★   10/29 コルネイユにこんなメタシアター的な作品があったというのは驚きだが、演劇オタクには興味深くても一般観客にとってはどうだったか? 若手役者の台詞が一本調子だが、ベテランはさすがにうまい。

10/20-11/11「欲望という名の電車」(樋口可南子・内野聖陽出演)@新国立劇場中劇場
★★★  10/25 樋口・内野をはじめとして役者はよい。サブテキストの読み込みは甘い。広い舞台で動線が不自然になっている。とくに乱闘場面は情けない。音響はひどい。リアルな音の作り込みができていない。

10/ 4-10/ 9「秋のエチュード」(MODE)@ザ・スズナリ
★    10/07 秋のエチュードって名前は伊達ではなかった。啓蒙臭さと衒学趣味がもろに出たいやみな芝居。羊屋の部分だけがある意味救いだった。

10/ 2-10/22「太平洋序曲」(宮本亜門演出)@新国立劇場小劇場
★★   10/06 ソンドハイムの難しいスコアを歌いこなせていないのは残念だし、マイクの音量をわざとしぼっているため時々歌詞が聞きとれないのは残念だが、演出も含めよくやっていると思う。楽日に近づけばよくなるのでは。

9/27- 9/30「アメリカ」(横浜ボートシアター)@シアターX
★    09/30 いつものことだが、「面白い」の一歩手前にとどまっている。全くつまらないわけではないが、「夢十夜」や「ねじ式」のほうがずっと面白い。

9/ 8- 9/30「マクベス」(鐘下辰男演出)@新国立劇場中劇場
★★★★ 09/12 鐘下辰男の演劇的才能に脱帽。相当の改作でこれをマクベスとよぶにははばかれるが、何から何まで換骨奪胎して鐘下流に仕立て上げているのはすばらしい。最後の「仕掛け」の意味に気づいた観客はどのくらいいただろうか。

5/19- 6/ 4「悪戯」(タ・マニネ)@シアターコクーン
★★★★ 06/05 いつもにまして相手をなじるくどくて長い台詞のオンパレード。現実の生活では絶対にこんな台詞喋らないけれど妙に納得してしまうところが現代のチェーホフとよばれる理由だろう。役者は全員もちろん素晴らしい。

5/26- 6/ 4「夜の墓場で運動」(猫ニャー)@THEATER/TOPS
★★★★ 06/05 ギャグが面白いのは相変わらずだが、台本は明らかにギャグだけではないものを目ざしていた。それが何なのかはまだわからないが。役者もうまくなった。

4/11- 4/26「なよたけ」(中村橋之助・小島聖出演)@新国立劇場中劇場
無星   04/24 新劇の夢よもう一度と願っても無理だ。鐘下のように新劇を相対化する視点を持った演出家がやるのなら意味があるが,これではただの復古上演だ。

4/ 1- 5/14「カノン」(NODA・MAP )@シアターコクーン
★★★★ 04/20 野田が何を吠えようと作家としての最盛期を終えてしまっていることは確かだが,今回は唐沢が圧倒的にいいのでそれを見るだけでも価値がある。役者の体からオーラが出ているのを見たのは去年幸四郎の「関の扉」を見て以来。

3/17- 4/16「LONG AFTER LOVE 」(tpt )@ベニサン・ピット
★★   04/10 三島の戯曲の言葉がきちんと話せるのはかろうじて麻実のみ。どちらも面白くなかったけれどルヴォーのほうがややましだったのは演出家の才能のせいか。

3/ 9- 3/ 9「藪原検校」(地人会)@かめありリリオホール
★★★★ 03/12 面白かった。先鋭的なものばかりでなく、たまにはこういうのも見ましょうみなさん。

3/ 8- 3/23「ロベルト・ズッコ」(堤真一・中島朋子出演)@パブリックシアター
★★★  03/12 役者と舞台美術はそんなに悪くないんですが、選曲のセンスはゼロでしたねえ。そういうところで演劇人が「おしゃれ」ぶるのはやめてくださいカッコ悪いから。

2/ 9- 2/13「ヴォイツェック」(ジョセフ・ナジ)@シアタートラム
★    02/11 時代がすこしずれた東欧のアヴァンギャルドの匂い。15年ほど前にカントールが来たときには感動したのだが。年をとったからいけないのか、それともこの集団の実力なのか。

2/ 4- 2/13「ローゼンクランツとギルデ…」(生瀬勝久・古田新太出演)@シアターコクーン
★★   02/08 ストッパードのメタシアトリカルな仕掛けは今見るとすごく古くさく感じられる。それを二人の達者な演技がかろうじて救っていた。

1/29- 2/ 8「三人姉妹」(松本修演出)@パブリックシアター
★★★  02/08 文句をつけようと思えばつけられるけれど、これだけ換骨奪胎が見事であればほめなくてはいけないのでは。

1/ 8- 1/16「泉鏡花の天守物語」(花組芝居)@シアターアプル
★★★  01/10 いろいろ理屈を言っても楽しめるし、理屈抜きにも楽しめる。これでもっと踊りがみんなうまければなあ。

12/23-1/6「砂に沈む月」(遊園地再生事業団FINAL)@ザ・スズナリ
★    01/05 宮沢の戯曲はそのナンセンスさも、トリヴィアリズムも、別役実の質の悪いコピーとしかいつも思えないのだが、なにがそんなにいいんでしょうかね。

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「えんげきのぺーじ:一行レビュー」再録:2001年

10/ 5-10/ 9「ファイナル・ファンタジー」(劇団本谷有希子)@THEATER BRATS
★★★  10/08 文学的(演劇的ではなく)主題と展開に驚く。ニヒリズムの問題を宮台的に処理した如才のなさにむかつく人がいるのもわかるが、とりあえず本谷の才能は認めてあげてもいいのでは。とはいえ、小劇場で勝負するべきなのかは疑問。文学座に書き下ろしたり翻訳を海外でやるとかあるいは小説家になるとかのほうが本人のためのような気もする。

10/ 6-10/ 8「栄冠は君に輝く」(シベリア少女鉄道)@タイニイ・アリス
★★   10/08 再演の可能性などはなから考えずに一発芸で勝負する姿勢は潔いのかもしれないが、正直見続けていくのはつらい。演劇を作るのってシャレだけじゃできないと思うから、無責任にほめるのはどうも。

10/ 3-10/ 7「ハンバーガーマシーンガー…」(毛皮族)@こまばアゴラ劇場
★★★★ 10/06 シュールレアルな言語感覚とイメージを歌謡ショーのパロディでつないでいく才能とパワーにはただ驚嘆するしかない。戸山ハイツで腰巻きお仙を見た観客の興奮はおそらくこれと似たようなものだったろう。

9/ 7- 9/22「堤防の上の鼓手」(太陽劇団)@新国立劇場中劇場
★★   09/25 21日観劇。血のちらしかたとか、死ぬときに扇を広げるとか、日本文化への無理解ぶりをここまで堂々と示されると、やっぱり日本人としては怒らなくちゃまずいんではないか?

9/14- 9/23「LONG DISTANCE LOVE」(指輪ホテル)@渋谷club asia「P」
★★★  09/22 海の向こう側を鏡の向こうに見立てることで想像界から象徴界への参入という羊屋おなじみの主題がより明解になった。タイムラグのあるコミュニケーション、ぼやけていてはっきり見えない映像も半ば確信犯かも。

8/30- 9/16「暗い冒険」(KERA・MAP )@ザ・スズナリ
★★   09/06 6日マチネ南。ケラは先鋭的な笑いを追求するのをやめたのか。最後をのぞけばきわめてマイルドな笑い、キートンやルビッチ映画の焼き直しにすぎない。もちろん、面白くないというわけではないのだが。

6/23- 7/ 3「ハムレットの悲劇」(ピーター・ブルック演出)@パブリックシアター
★★★  07/05 文句はないです。しかしちょっと飽きたことも確かです。ヨーロッパでももっとイキのいいものはあるから、そういうのを連れてきてほしいです。

6/22- 7/ 8「キャンディード」(宮本亜門演出)@東京国際フォーラムC
★★★★ 06/30 キャスト・オーケストラは最高。数年前のブロードウェイ公演など目じゃない。だが日本語が聞き取れないのは訳詞のせいなのか、それともミュージカルやオペラに日本語はなじまないという根本的な理由のせいなのか。英語でやって字幕をつけたら完璧だったと思う。

6/ 8- 7/ 1「キャバレー」(サム・メンデス演出)@赤坂ACTシアター
★    06/17 最悪に近い出来。メンデスはフォッシー監督の映画の複雑な面白みを切り捨てたかわりにストレートで単純な物語をパワフルに示すことにしたわけだが、キャストに力がなければ気の抜けたサイダーを飲むようなものだということがよくわかった。MCがとくにひどい。

5/23- 6/ 3「上野動物園再々々襲撃」(青年団)@シアタートラム
★★★★ 06/04 役者たちもよいが、金杉忠男の世界を換骨奪胎した平田の才能に感嘆すべきだろう。しかし願わくば金杉へのオマージュはこれ一作で終えてもらいたい。平田戯曲の魅力はそのドライさ、冷徹な視点にあると思うのは私だけではないはずだ。

3/15- 3/20「神々を創る機械」(H・アール・カオス )@パブリックシアター
★★   03/20 基本的には駄作。振付は陳腐だし作品全体の強度を生み出すためのアイデアもすべて借り物(とくにあのワーグナーはなんとかならないか)。だがその分「やおい」的感性が全面に露出しており、サイレント宝塚のような一場面はその奇妙さに胸を打たれる。

3/ 2- 3/11「どん底」(東演)@パブリックシアター
★★★★ 03/13 古くさいものを予想していたが、大違い。身体の演劇と言葉の演劇ががっぷりと四つに組み合わさって、まことに濃厚な時間を作り出している。テアトル・ド・コンプリシテの「ルーシー・キャブロル」に次ぐ出来。いいものを見させてもらいました。

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「えんげきのぺーじ:一行レビュー」再録:2002年

7/26- 7/28「New albums」(珍しいキノコ舞踊団)@世田谷パブリックT
★★★★ 07/28 冒頭、ワーグナーと目くらましのパー管とハンギングの使用はH・アール・カオスを茶化しているようで愉快。表現の強度というモダニズムの罠から逃れるその軽やかさ。

5/ 8- 5/12「エロを乞う人」(毛皮族)@ウエストエンドスタ…
★★★  05/11 才能は相変わらず感じさせたが、作品としては駄作になるのでは。書き込みすぎ、ネタを詰め込みすぎて、独特のスピード感が薄まってしまった。もっとぶっ飛んでいいのに。

4/24- 4/29「コスモ☆プロジェクト」(演劇弁当猫ニャー)@東京芸術劇場小2
★★★  04/28 テンポを犠牲にしてまで陳腐な物語を丁寧に語ることにどんな意味があるかまだよくわからないが、既存の笑いを超えた地平を目指す姿勢やよし。

3/28- 3/31「生きてゐる小平次」(ク・ナウカ)@法政大学学生会館大H
★★   03/29 二団体ともスタイルが拘束衣になってしまっている。「様式としての純粋さを追求するのではなく、夾雑物を入れる」ことすら一個のスタイルになってしまうという陥穽。それは鈴木忠志の悪しき模倣にすぎない。

3/26- 3/31「フリル(ミニ)ワイルド in …」(珍しいキノコ舞踊団)@原美術館
★★★★ 03/29 たゆとう時間の心地よさ。空間だけでなく、時間をも統御するダンス。花冷えだったのが惜しまれる。

2/15- 2/17「冬のユリゲラー2002」(ヨーロッパ企画)@スフィアメックス
★★★  02/18 脚本は相変わらず面白いのだが、この集団の売りである妙なグルーブ感が緊張していたせいか前半にあまり感じられなかったのは残念。だが中盤以降は徐々に調子を取り戻し、たっぷりと笑わせてくれた。もっと役者は悪のりしてよいのでは?

2/16- 2/18「家が遠い」(五反田団)@こまばアゴラ劇場
★★★  02/18 おバカな男子中学生たちの日常の一こまを写生しているだけのようでいて、そこはかとない叙情性を醸し出すというのはただ者ではない。洗練されすぎていて食い足りない思いが残るのが玉にキズか。でも素晴らしい才能です。

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「えんげきのぺーじ:一行レビュー」再録:2003年

8/24- 8/26「アチャラカ再誕生」(空飛ぶ雲の上団五郎一座)@ラフォーレM原宿
★★★★ 08/27 アチャラカ喜劇の啓蒙を企むのなら菊谷栄「最後の伝令」への言及がパンフにあるべき。客の笑いのツボの一つでもあったのだから。個人的にはくりーむしちゅーの実力を見直せてよかった。

6/27- 6/29「ダークマスター」(庭劇団ペニノ)@下北沢駅前劇場
★★★  06/30 面白かった。が、題材の選びかたの渋さ(誰がいまどき狩撫麻礼+泉晴紀なんてものを読むのだ?)をはじめとして趣味に走りすぎ=余裕かましすぎ、という気がしなくもない。原作ものを手がけるよりタニノの脳内宇宙を広範な観客に知らしめるほうが先決だろう。

5/23- 6/ 8「エレファント・バニッシュ」(サイモン・マクバーニー)@世田谷パブリックシ…
無星 06/05 ひどい。村上春樹の愛読者は絶対に見ないほうがいい。原作の素晴らしさが蹂躙されるのに耐えられないだろう。マクバーニーファンは行くだけ時間の無駄。「ルーシー・キャブロル」その他に較べると数段下。なんでこんなものができたのか、本当に謎。詳しくは談話室で。

5/ 8- 5/21「屋根裏」(燐光群)@梅ヶ丘BOX
★★★★ 05/23 「引きこもり」たちの織りなす多少マンガチックなドラマよりもその異形の身体にこそ注目せよ。一つ上の世代がゴキコンへ出した回答が「屋根裏」だ。

5/ 9- 5/13「弁償するとき目が光る」(演劇弁当猫ニャー)@本多劇場
★★★★ 05/10 複数の物語が切り刻まれごちゃまぜにされ、わけのわからなさパワーアップ。今ふうの人情喜劇をバロウズ流にカットアップするとこうなるのか。役者陣も力強い演技で、他に類を見ないブルースカイの世界がはっきり浮かび上がった。

3/16- 4/ 6「夜叉ヶ池」(加納幸和演出)@東京グローブ座
★★★★ 04/01 鏡花の世界がフェリーニ「8 1/2」の世界に変貌をとげるとは。ただそのセンスに脱帽。佐藤アツヒロもそれほどひどくない。

1/11- 1/15「狭夜衣鴛鴦剣翅」(山の手事情社)@ザ・スズナリ
★★★★ 01/13 鈴木忠志の正統な後継者は(岡本章でも宮城聡でもましてや関美能留でもなく)安田雅弘なのだな、と得心させるのに十分な見応えのある作品。われこそは演劇通と思わん者は駆けつけよ。

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