談志は志ん朝を評価していたか

談志は志ん朝を評価していたか
談志が世間の評価と異なり志ん朝をうまいとは思っていなかったのは、落語を多少知っている人間にとってはごく当たり前のことだと考えていた。

だがツィッターでそう呟いたら反論をいただいたので、あらためてそのことを説明してみようと思う。

松本尚久(現・和田尚久)編『落語を聴かなくても人生は生きられる』(ちくま文庫)所収の拙論「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」の最後1/3は実は談志論になっている。

矢野誠一や小沢昭一にならって、落語のうまさの基準の一方の極に「語り」を置き、もう一方の極に「描写」(=「リアリズム」「写実」)をおいて考えたとき、六代目三遊亭圓生や五代目立川談志らが「描写」に重きを置いたために、「語り」だけに傾注した三代目三遊亭金馬・八代目林家正蔵はセコと言われるようになった、というのが拙論の趣旨である。

その際、ハラルト・ヴァインリッヒに依拠して<はなし>=<緊張>と<かたり>=<緊張緩和>という二つの発話態度を区別した坂部恵(『かたりー物語の文法』)にならい、昭和戦後期落語においては、圓生や談志といった<はなし>派は、矢野が指摘する「落語の文学化」を行い、リアリズム演劇のように入信の演技で人物を描写してみせたが、志ん生は彼ら<はなし>派と、金馬や正蔵といった<かたり>派の間に立って、<かたり>つつ<はなし>をする、すなわち、緊張と緩和のあいだを往き来する、多くの落語家が無意識に実践してきたやり方で通した、ということを述べた。

息子の志ん朝は父親のような「正統な落語」をめざし、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させたのだが、その志ん朝を談志はこう批判する。

ある時、テレビで志ん朝の落語やってましたが、落語リアリティから言ったら、もう部分部分は人物造形も何も下手くそでね。柳好のように歌い上げるリズムだけで演っているつもりならともかく、当人は内容勝負の作品派、現代の円生、いや、ひょっとすら文楽のつもりなんでしょう。それがあんな不調和なリズムで演られたら、「どうなんだい、これは」って思った。人間観の深みがあるわけでもない、それでも若い頃はスピードもあったしリズムも良くて、客を酔わせ、会場を熱気に叩き込むことが出来たでしょう。その勢いがなくなっていた。『人生、成り行き 談志一代記』(2008年)

たしかに昔は「唄い調子」と呼ばれた柳好のような<かたり>派の一人として談志は志ん朝のことを評価していた。79年東横ホールで「品川心中」を演じた談志は枕でその直前に志ん朝が演じた「愛宕山」を激賞している。ところが今の志ん朝は<かたり>派に徹し切れておらず、圓生のような<はなし>派に色目を使ってる、それは中途半端で「下手くそ」だ、というのが談志の言わんとしていることだろう。志ん朝にとって<はなし>と<かたり>の往還運動は<かたり>一辺倒からの進歩だったが、談志にとってそれは退化だった。

ここから先は拙論を引用してみる。

 円生の芸を受け継ぎ、円生を超えた(と考えていた)自分の「演技」志向から一線を置いていた志ん朝の態度に談志が苛立ちを感じていたこともうかがわれるが、<かたり>つつ<はなし>をする、緊張と緩和のあいだを往き来する「正統な」落語一般に談志の批判の矛先は向けられていたとみるほうが自然である。  というのも、談志は志ん朝が目指していた「うまい」芸が行き着く先を見抜いていたからだ。<かたり>と<はなし>を往き来しながら、筋の緊密な構成が生み出す息苦しさを語り手の個性が和らげる、そんなバランスのとれた「うまい」芸をできるようになった芸人はいつか面白くなくなる。なぜならそれは技術による達成だからであり、人間心理への深い洞察なしに成立するからである。「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」

 そのような(技術的な)「うまさ」を談志はうまさだとは思っていなかった。この技巧において「うまい」噺家として談志が挙げるのは八代目桂文治である。

[八代目桂文治は]おれたちが入った頃はもう面白くも巧くも何ともない、ヘンな声と抑揚でやっていました。あれはテクニックだけでやっていると、つまり「巧い」を極めるやり方で行って、技術的に完成してしまうと、人間、やりようがなくなっちゃうんでしょうな。ヘンな方向へ行っちゃう。『人生、成り行き 談志一代記』

つまり、談志は志ん朝の行く末に八代目桂文治を重ねていたのだ。

今回ツィッターで議論の焦点の一つになったのは、談志が繰り返し語っている、志ん朝に「志ん生になれよ」と襲名を薦めた、という逸話の部分。志ん朝から「兄さん、口上言ってくれるかい」と頼まれて談志は「もっと上手くなれよ」と答えた、と書いている(『談志絶倒昭和落語家伝』『名跡問答』)し、音源も残っている(「立川談志の人物話 落語家 古今亭志ん朝」)。この音源では「そのかわりもう少しうまくなれよ、と言った」とまず言い放ち、自分でも「すごいねこれ」と注釈をつけたうえで「下手だと言っているんじゃない、もっとうまくならなきゃあかん、といっているんです」と言い直している。

私などは音源での「もう少しうまくなれよ」という物言いを聴いただけでも、談志は最初から志ん朝のことをうまいと思っていなかったのだな、と思えるのだが、そうではない、今も「うまい」と思っているけれど「もっと」うまくなれ、と言っているだけだろう、と反論されれば、そうではない、とは言い切れない。

この音源では続いて談志は自分の発言の真意として「彼の持つ技芸のやり方の限界を超えろ、と言っていたのかもしれない」と述べている。『談志絶倒昭和落語家伝』でも、志ん朝が死んだのはよかったのか残念だったのかわからない、というのは「志ん朝からは、”あれ以上のものがでてこなかったかもしれない”という思いが源になって」いるという意味ではよかったが、「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」ので残念だ、と述べている。

志ん朝の「限界」を見きわめている自分は、落語が、落語という制度が、誰よりもわかっている。談志はこの一連の発言のときそう思っていただろう。だからこそ、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させた志ん朝が余計に中途半端に、「下手くそ」に見えた。晩年「イリュージョン」を言い出すまで、談志にとって(「本当の」)うまさの基準はあくまでも「描写」であり、<はなし>の出来映えだった。「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」という発言は、自らのイリュージョン理論に照らして再度志ん朝への評価を変える準備はあったことの証拠だ。そういう点で談志は自分に正直で、公平な人だった。ライバル意識や嫉妬が談志の志ん朝評価を曇らせた、というような俗説を私はとらない。正直な気持ちで、志ん朝には「限界」があるし、「もっとうまくなれる」と思っていたのだろう。志ん朝の時ならぬ死でそれも適わなくなった。だから、談志の最終的な評価は「うまくなる可能性はあったが、うまくはない」というものだったと私は考える。

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One Comment

  1. SH60
    Posted 2017/01/12 at 21:10 | Permalink

    志ん朝さんの落語は隙がなく完璧に思え、志ん朝さん以外の落語を聴けない時期がありましたが
    先代の春風亭柳朝さんの大工調べを聴いた時に、
    志ん朝さんの大工調べではほとんど見えてこなかった、
    大工の棟梁の無学が故の無意識の無礼によって
    大家が突如へそを曲げるというプロセスが鮮やかに浮かんできて
    立川談志という人が志ん朝という人の落語に対してどういうもどかしさを感じていたかの一端が理解できた気がしました。

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