渋谷天外の筆名について

大槻茂『喜劇の帝王 渋谷天外伝』(小学館文庫・一九九九年)は浩瀚な資料を渉猟し、遺族や松竹新喜劇・家庭劇関係者にも丹念に取材した労作だが、三代目天外に直接取材したとおぼしき箇所では三代目天外の誤解を鵜呑みにして書かれているところもある。具体的には以下の記述。

三代目天外は父の死後、自宅に残されていた脚本類を得意のパソコンを駆使して整理した。昭和五十八年十二月一日現在、脚本の数は原作、合作、脚色などを含めて五百五十六本にのぼっている。原作は三百六本あり、館直志、渋谷一雄、川竹五十郎、志賀里人、山田青風、河井新、新城稔の八つのペンネームで書かれている。川竹五十郎の川竹は初代天外のペンネームの姓で、名は居候の身をもじった(※)。志賀里人は志賀廼家淡海のために書いた脚本のペンネーム。新城は妻・喜久栄の縁戚の姓、山田青風の青風はその新城の俳号という。渋谷家には残っていないが、池田の和田家にちなんだ大和田想外の名で書かれた脚本もある。

『喜劇の帝王 渋谷天外伝』六九—七〇頁。

まず志賀里人だが、『わが喜劇』に「<家庭劇>はその名が示すように、従来の喜劇に、ややホームドラマのような味を加えたもので、茂林寺文福さんこと十吾さんを助けて、私も詩賀里人のほか、川竹五十郎、館直志などのペンネームで、脚本を書きまくったものである」(渋谷天外『わが喜劇』[三一書房、一九七二年]四六頁)とあるように、「志賀廼家淡海のために書いた脚本のペンネーム」とまではいえない。一九二八年九月(一日初日)角座での松竹家庭劇旗揚げ公演の際、「真心」「玉子」「猫の目」、二の替わりの「軽石」「青い眼鏡」が茂林寺文福との共作としてあげられている。ただし天外はまず一九二二年十一月に志賀廼家淡海劇に「脚本七分の役者三分」(『わが喜劇』四二頁)の約束で加入したので、詩賀里人はその時以来のペンネームである、という可能性はある。

次に大和田想外だが、これは別人だろう。というのは一九一七年七月(一日初日)中座の曽我廼家五郎一座の番附(阪急池田文庫蔵)の演目に「大和田想外案 一堺漁人脚色 背負投」があるからだ。天外は一九〇六年生まれだし、五郎と直接面識はないようだから、これはあり得ない。大和田想外は一九四〇年一月大阪歌舞伎座の松竹家庭劇公演の番附に「脚本部」として(茂林寺文福・館直志・尾崎倉三・高須文七とともに)載せられているから、家庭劇の関係者でもあったのだろうが、『大阪弁』第三集(一九四九年)に「五郞の生涯」という随筆を載せているので、もとは五郎劇に属していたことがわかる。

なお、引用に「池田の和田家にちなんだ」とあるのは、処女作「私は時計であります」の原稿を天外から譲り受けて保存していた大阪府池田市在住の和田富美枝のことで、大槻によれば「和田家は代々、兵庫県一帯にたばこを卸す豪商だった。松竹家庭劇の座員たちは、和田家から物心両面にわたるかなりの援助を受け、親しくしていた。天外より六歳年下の富美枝は、芝居好きだった祖母、両親を介して女学生のころから天外を知っていた」(『喜劇の帝王 渋谷天外伝』六四頁)。大和田—和田という(誤った)連想は誰のものであったのか、この記述だけではわからないが、おそらくは三代目天外のものだったのではないか。五郎の本名は和田久一だから、大和田はそちらと関係があるのかもしれない。

※「早稲田大学演劇博物館上演記録データベース」では川竹五十郎の読みが「かわたけごじゅうろう」となっているが、上記の記述から「かわたけいそうろう」が正しいことがわかる。

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