談志は志ん朝を評価していたか

談志は志ん朝を評価していたか
談志が世間の評価と異なり志ん朝をうまいとは思っていなかったのは、落語を多少知っている人間にとってはごく当たり前のことだと考えていた。

だがツィッターでそう呟いたら反論をいただいたので、あらためてそのことを説明してみようと思う。

松本尚久(現・和田尚久)編『落語を聴かなくても人生は生きられる』(ちくま文庫)所収の拙論「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」の最後1/3は実は談志論になっている。

矢野誠一や小沢昭一にならって、落語のうまさの基準の一方の極に「語り」を置き、もう一方の極に「描写」(=「リアリズム」「写実」)をおいて考えたとき、六代目三遊亭圓生や五代目立川談志らが「描写」に重きを置いたために、「語り」だけに傾注した三代目三遊亭金馬・八代目林家正蔵はセコと言われるようになった、というのが拙論の趣旨である。

その際、ハラルト・ヴァインリッヒに依拠して<はなし>=<緊張>と<かたり>=<緊張緩和>という二つの発話態度を区別した坂部恵(『かたりー物語の文法』)にならい、昭和戦後期落語においては、圓生や談志といった<はなし>派は、矢野が指摘する「落語の文学化」を行い、リアリズム演劇のように入信の演技で人物を描写してみせたが、志ん生は彼ら<はなし>派と、金馬や正蔵といった<かたり>派の間に立って、<かたり>つつ<はなし>をする、すなわち、緊張と緩和のあいだを往き来する、多くの落語家が無意識に実践してきたやり方で通した、ということを述べた。

息子の志ん朝は父親のような「正統な落語」をめざし、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させたのだが、その志ん朝を談志はこう批判する。

ある時、テレビで志ん朝の落語やってましたが、落語リアリティから言ったら、もう部分部分は人物造形も何も下手くそでね。柳好のように歌い上げるリズムだけで演っているつもりならともかく、当人は内容勝負の作品派、現代の円生、いや、ひょっとすら文楽のつもりなんでしょう。それがあんな不調和なリズムで演られたら、「どうなんだい、これは」って思った。人間観の深みがあるわけでもない、それでも若い頃はスピードもあったしリズムも良くて、客を酔わせ、会場を熱気に叩き込むことが出来たでしょう。その勢いがなくなっていた。『人生、成り行き 談志一代記』(2008年)

たしかに昔は「唄い調子」と呼ばれた柳好のような<かたり>派の一人として談志は志ん朝のことを評価していた。79年東横ホールで「品川心中」を演じた談志は枕でその直前に志ん朝が演じた「愛宕山」を激賞している。ところが今の志ん朝は<かたり>派に徹し切れておらず、圓生のような<はなし>派に色目を使ってる、それは中途半端で「下手くそ」だ、というのが談志の言わんとしていることだろう。志ん朝にとって<はなし>と<かたり>の往還運動は<かたり>一辺倒からの進歩だったが、談志にとってそれは退化だった。

ここから先は拙論を引用してみる。

 円生の芸を受け継ぎ、円生を超えた(と考えていた)自分の「演技」志向から一線を置いていた志ん朝の態度に談志が苛立ちを感じていたこともうかがわれるが、<かたり>つつ<はなし>をする、緊張と緩和のあいだを往き来する「正統な」落語一般に談志の批判の矛先は向けられていたとみるほうが自然である。  というのも、談志は志ん朝が目指していた「うまい」芸が行き着く先を見抜いていたからだ。<かたり>と<はなし>を往き来しながら、筋の緊密な構成が生み出す息苦しさを語り手の個性が和らげる、そんなバランスのとれた「うまい」芸をできるようになった芸人はいつか面白くなくなる。なぜならそれは技術による達成だからであり、人間心理への深い洞察なしに成立するからである。「金馬・正蔵はなぜセコと言われたか—昭和戦後期落語についての一考察」

 そのような(技術的な)「うまさ」を談志はうまさだとは思っていなかった。この技巧において「うまい」噺家として談志が挙げるのは八代目桂文治である。

[八代目桂文治は]おれたちが入った頃はもう面白くも巧くも何ともない、ヘンな声と抑揚でやっていました。あれはテクニックだけでやっていると、つまり「巧い」を極めるやり方で行って、技術的に完成してしまうと、人間、やりようがなくなっちゃうんでしょうな。ヘンな方向へ行っちゃう。『人生、成り行き 談志一代記』

つまり、談志は志ん朝の行く末に八代目桂文治を重ねていたのだ。

今回ツィッターで議論の焦点の一つになったのは、談志が繰り返し語っている、志ん朝に「志ん生になれよ」と襲名を薦めた、という逸話の部分。志ん朝から「兄さん、口上言ってくれるかい」と頼まれて談志は「もっと上手くなれよ」と答えた、と書いている(『談志絶倒昭和落語家伝』『名跡問答』)し、音源も残っている(「立川談志の人物話 落語家 古今亭志ん朝」)。この音源では「そのかわりもう少しうまくなれよ、と言った」とまず言い放ち、自分でも「すごいねこれ」と注釈をつけたうえで「下手だと言っているんじゃない、もっとうまくならなきゃあかん、といっているんです」と言い直している。

私などは音源での「もう少しうまくなれよ」という物言いを聴いただけでも、談志は最初から志ん朝のことをうまいと思っていなかったのだな、と思えるのだが、そうではない、今も「うまい」と思っているけれど「もっと」うまくなれ、と言っているだけだろう、と反論されれば、そうではない、とは言い切れない。

この音源では続いて談志は自分の発言の真意として「彼の持つ技芸のやり方の限界を超えろ、と言っていたのかもしれない」と述べている。『談志絶倒昭和落語家伝』でも、志ん朝が死んだのはよかったのか残念だったのかわからない、というのは「志ん朝からは、”あれ以上のものがでてこなかったかもしれない”という思いが源になって」いるという意味ではよかったが、「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」ので残念だ、と述べている。

志ん朝の「限界」を見きわめている自分は、落語が、落語という制度が、誰よりもわかっている。談志はこの一連の発言のときそう思っていただろう。だからこそ、<はなし>と<かたり>の往還運動をする演じかたを完成させた志ん朝が余計に中途半端に、「下手くそ」に見えた。晩年「イリュージョン」を言い出すまで、談志にとって(「本当の」)うまさの基準はあくまでも「描写」であり、<はなし>の出来映えだった。「ことによると、”作品派”から、志ん生の血を継いだ、訳のわからないような部分が出てきたような気もする」という発言は、自らのイリュージョン理論に照らして再度志ん朝への評価を変える準備はあったことの証拠だ。そういう点で談志は自分に正直で、公平な人だった。ライバル意識や嫉妬が談志の志ん朝評価を曇らせた、というような俗説を私はとらない。正直な気持ちで、志ん朝には「限界」があるし、「もっとうまくなれる」と思っていたのだろう。志ん朝の時ならぬ死でそれも適わなくなった。だから、談志の最終的な評価は「うまくなる可能性はあったが、うまくはない」というものだったと私は考える。

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ダンス・ミュージカルとしての『ホワイト・クリスマス』

『ホワイト・クリスマス』White Christmas(1954)は、とくに日本ではあまり評価されていないように思える。

ブロードウェイの人気スターで、作詞家・作曲家コンビでもあるフィル(ダニー・ケイ)とボブ(ビング・クロスビー)が、フロリダで姉妹芸を演じているベティ(ローズマリー・クルーニー)とジュディ(ヴェラ=エレン)と知り合い、四人でヴァーモント州パインツリーに雪とスキーを期待して出かける。あいにく雪は降っておらず、四人が泊まったホテルは閑散としていたが、そのホテル、コロンビア・インのオーナーは第二次世界大戦で従軍したボブとフィルの上官、ウェイバリー少将(ディーン・ジャガー)だった。軍に復帰したいと願うが年齢のためにかなえられず、失意に沈む元上官のために、二人は所属していた第151分隊の10周年の同窓会を少将に内緒で企画する。

というその物語は、とくにつまらないわけでも、無理があるわけでもないが、起伏に欠け、結末では二組のカップルが成立する予想通りの展開で物足りなさを感じる。

そもそも、アーヴィン・バーリングの戦前のヒット曲で、『スイング・ホテル』Holiday Inn(1942)でも主題歌となった「ホワイト・クリスマス」を再度取り上げるという構想が最初にあっての作品だから、面白く作るのは難しい。しかも、フレッド・アステアとビング・クロスビーのコンビでアーヴィン・バーリングの楽曲を歌わせる、という『スイング・ホテル』には、すでに二匹目のドジョウとして『ブルー・スカイ』Blue Skies(1946)がある。二番煎じならぬ三番煎じの作品への出演を打診されたアステアは断り、かわりに『ホワイト・クリスマス』ではダニー・ケイがクロスビーと組むことになった。アステアの判断は賢明だったと思う。

それでも合衆国ではそれなりの評価を受けているのは、クロスビーの歌声と佇まいを変わらずに愛し続ける人々がいるからであり、また自分の国を守る軍隊への敬愛の情が生き続けているからだろう。

クロスビーの魅力は、その凡庸さにある。「普通に」ハンサム、「普通に」いい声、「普通に」温厚(そう)な性格。その「普通さ」が特別な価値を持っているように感じられたのは、当時の合衆国でヨーロッパ系白人が社会の中枢を占めていたからだ。強烈な個性や他を圧倒する才能、あるいは血のにじみ出るような努力の跡がなくても、生来備わった美質だけでクロスビーのような金髪で青い目の人間はスターになれた。いやむしろ個性や才能や努力の跡が放つ熱のようなものは、物事の価値や基準がすでに決められており、挑戦されることのない社会では敬遠された。育ちがよさそうで、はげしく自己主張をすることのないクロスビーのような人が、正しく美しいとされた。社会が大きく変化し白人中心主義が鋭く批判されるようになった現在でも、クロスビーやその同類の人たちを——「古き良き時代」へのノスタルジア込みで——愛する観客はいる。

厳しいが人情味のある上官のためにかつての部下たちが勢揃いする最後の場面は、戦争が終わって十年足らず、復員軍人がそこら中にいた公開当時はもちろんのこと、現在でも一定の訴求力はあるはずだ。『愛と青春の旅だち』An Officer and a Gentleman(1982)をはじめ「鬼教官もの」はハリウッド映画ではお馴染みのものだが、『ホワイト・クリスマス』では、クロスビー、ケイ、クルーニー、ヴェラ=エレンという主役四人の歌とダンスを見せることに焦点が当てられていることもあって、その主題は掘り下げられていない。だが「鬼教官もの」の骨組みしかないのは、作り手が技術的に未熟だからというよりむしろ、肉付けせずとも観客は軍隊への敬愛の情を膨らませるはず、と作り手がしたたかに計算をしているからなのだ。一般に、作り手と観客とが一つの文脈を共有しているとき、作り手の「思わせぶり」な身振りは、はっきりと明言されたときよりも観客に強烈な印象を残す。黙説法は、受け手が「省略された部分」について自らの想像を膨らませるからこそ効果を発揮する。軍服姿の軍人を街中で見かけると、周囲の人が敬意と感謝のこもった目を向ける、そういう社会だからこそ通じる「さらりと流す」表現として同窓会までの実現が描かれる。

だが現代の日本人にとって、『ホワイト・クリスマス』を多少なりとも見られるものにしているこの二つの要素は、想像はできても実感をもって感じられるものではない。クロスビーはスターとしてのオーラに欠ける二流の俳優に過ぎないし、軍隊への敬愛の情がなく、勝利を収めた自分たちの軍隊が帰還するのを歓呼を持って迎えた経験もない私たちには、感動的なエピソードになるはずのサプライズ同窓会の計画が淡々と語られることに軽く失望を覚える。しかもクロスビーとクルーニー(ジョージ・クルーニーの伯母で、51年には”Come On-a My House”をビルボードチャート1位にした)の歌はともかく、踊りは冴えない。ケイもその愛嬌はわかるが、全盛期ミュージカル映画に出演する俳優としては歌も踊りも魅力がない。

そしてアーヴィン・バーリングのヒット曲をずらりと並べた「歌もの」ミュージカル映画としては物足りないのは、合衆国の観客にとっても同様だろう。同じぐらい物語が薄くても、『世紀の楽団』Alexander’s Ragtime Band(1938)とか、『ホワイト・クリスマス』と同年に公開された『ショウほど素敵な商売はない』There’s No Business Like Show Business(1954)のほうが、バーリングの楽曲を楽しめる。どちらにもエセル・マーマンが出ているし。

だがこの映画には別の魅力がある。玄人好みのするダンスを踊ったヴェラ=エレンを出演させ、ジョン・ブラシアというダンスの名手をパートナーとして競演させているところだ。

これは言葉で説明するより、見てもらったほうが早い。ヴェラ=エレンは「マンディ」”Mandy”で最初クロスビーとケイとを従えて踊るが、二人の実力に合わせて優雅だがそれほど運動能力の高さを示す必要のないダンスを踊る。だが途中でブラシアが出てくると俄然本領を発揮し、先ほどまでとは違うキビキビとした動きを見せる。

次の「コレオグラフィー」”Choreography”というナンバーでもヴェラ=エレンはケイと踊るが、垂直方向への驚異的な跳躍を見せて途中から登場するブラシアのほうが明らかに目立っている。(なお、YouTubeのコメントに、このナンバーがマーサ・グラハムのモダンダンスのパロディで、セットはグラハム「アパラチアの春」Appalachian Springを模したものだ、という説明があった。ミニマリストの簡素な舞台は似ていなくもないし、「コレオグラフィー」という題名も、また群舞の女性たちが着ている濃い灰色の貫頭衣も、モダンダンスのパロディのような気もするが、「アパラチアの春」のアーロン・コープランドの素朴なメロディと、「コレオグラフィー」の金管楽器の派手な音が特色のジャズとは似ても似つかない。)

だが二人のダンサーとしての実力に真に圧倒されるのは、「エイブラハム」でのヴェラ=エレンとブラシアのデュエットだ(それまでの二つのナンバーと違って、クロスビーもケイもまったく絡まない)。これほど鬼気迫る、緊張感溢れるミュージカル映画のデュエットは、ほかに『踊るニュウ・ヨーク』Broadway Melody of 1940(1940)でのフレッド・アステアとエレノア・パウエルのダンス——とりわけ「ジュークボックス・ダンス」——ぐらいしかないのではないだろうか。

ちなみに若き日のジョージ・チャキリスもクルーニーが歌う「つれない恋」”Love You Didn’t Do Right By Me”で踊る四人のダンサーの一人として登場するが、とくにそのダンスの巧さに印象づけられるということはない。

「歌もの」ミュージカル映画として見ると、歌を吹き替えているヴェラ=エレンはこの作品には相応しくない。そもそもヴェラ=エレンの尋常ではないダンスの巧さを各映画スタジオは扱いかねていたところがあり、それもあって彼女は早期に引退したのではないかと思うのだが、『ホワイト・クリスマス』では物語とナンバーの統合を全く無視して、物語には全く無関係のジョン・ブラシアと踊らせることで、彼女の見せ場を作った。それが『カサブランカ』の名匠マイケル・カーティスの指金であったかどうかは寡聞にして知らない。だが正しい判断であったことは間違いがないだろう。

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コルトレーンのアルバム『インナーマン』について

John Coltrane “My Favorite Things” の録音は数十あると思われる。

そのうちベストテイクが何か、についてはジャズファンの中でも議論が分かれる。コルトレーンがソプラノ・サックスに持ち替えて冒頭で一オクターブ高く吹く1963年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音がよいというのは妥当な意見の一つだろう。マッコイ・ターナーのピアノ、ジミー・ギャリソンのベースは変わらないが、ドラムはいつものエルヴィン・ジョーンズに変わってロイ・ヘインズが叩いている。エリック・ドルフィーが離れ、1965年の『アセンション』で完全にフリージャズへと切り替わるつかの間の、少しポップに戻った頃の演奏だ。

とはいえ、コルトレーン・カルテットのキモはエルヴィン・ジョーンズのドラムだとかたく信じている私は、どちらかといえば(CDだと同じ一枚に収録されている)1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音のほうが好きだ。冒頭の強烈なシンバル四連発はスピーカーで聴いていてもぐっとくる。この録音はインターネットのリンクでは示せないので、かわりにあまり話題にされず、ほとんどなかったことになっているライブ・イン・ジャパンの57分の演奏を。メロディラインを解体するフリージャズの骨法は1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの録音ではあまり目立たないが、こちらでは最初から徹底している。中盤以降になってメロディが出てくるまで、なぜこの演奏に「マイ・フェイバリット・シングス」と名がついているのかすらわからないぐらいだ。

もっとも最初に私が聞いたテイクはアルバム『インナーマン』に収録された、バードランドの1962年のライブ録音だった。大学生のときCDを買って以来愛聴盤だったが、いつの間にか紛失してしまった(人に貸してしまって戻ってこなかったのかもしれない)。刷り込みとは恐ろしいもので、その後上記を含むさまざまな演奏を聞いても、『インナーマン』版のほうがよいように思えてしまう。記憶の中で美化されていくから尚更だ。

『インナーマン』のCDはその後なかなか見かけず、中古市場でたまにあっても高くて手が出ないでいたのだが、この数日思い立ってデジタル化した音源を求めて探し回り、調べてみて知らないことがいくつかわかった。まず、『インナーマン』Inner Manとは、テイチクが日本盤LPを1977年にを出したときにつけた名前である。Vee Jay Recordsの音源で海賊版に近いものだ、という噂は聞いてことがあったが、まさか日本だけ別の名前とは。合衆国ではLive at Birdland 1962で出ているようだ。ただし、私が今回デジタル音源を入手したAmazon.comではAt Birdland 1962とわずかに異なる名前になっている。しかもColtraneで検索をかけてもこのアルバムは出てこない。

また『インナーマン』とLive at Birdland 1962とは曲順が違う。ここで説明されているようにCD『インナーマン』の曲順は、

  1. My Favorite Things
  2. Body and Soul
  3. Mr. P.C.
  4. Miles’ Model

だが、Live at Birdland 1962では以下のように前半と後半が入れ替わっている。

  1. Mr. P.C
  2. Miles’ Model
  3. My Favorite Things
  4. Body and Soul

だがこれはおそらくLPのときのA面とB面を交換したのであって、二枚は同一のものである。しかも売れ線の”My Favorite Things”を一曲目に持ってくるのは意図的な選択であって間違いではないはずだ。

それからやっかいなことに、ふつうLive at Birdlandといえば、これはインパルスから1963年に出たアルバムで、CDだと6曲入りでなかでも“Afro Blue”が有名だが、“My Favorite Things”は入っていない。おそらくテイチクが『インナーマン』とつけたのはこの有名なアルバムと紛らわしいからではないか。なおLive at Birdland 1962の説明では、オリジナルCDはル・ジャズからLive At Birdland 1963として出た、とあるがこの点については調べてもこれ以上のことはわからなかった。日本盤CDとどちらが先なのだろうか。

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「子音をはっきり発音する」とはどういうことか

朝日新聞に「アラジン」初日の劇評を書いた(全文閲覧には無料登録が必要)。幾人かの友人知己から反響があったが、最後の段落で四季の母音法について苦言を呈したことで、ご不快に感じられるのではないか、と内心恐れていた方からも「よくぞ言ってくださった」との言葉をいただけたのはとりわけ嬉しかった。

鋭い指摘もあった。「子音をはっきり発音する四季独特の発声法ゆえに」と書いてあるけれど、劇団四季の発声法は「母音法」と言われているのではないか、「子音をはっきり発音する」とはどういうことか、というものだ。ここは自分でも書きながら、約七〇〇字という字数に収めるのに苦労した箇所だ。結果として言葉足らずになったことは否めない。その際に回答したことを以下に再録し、劇評の補足としたい。本当は七〇〇字で意を達しなければならないのだけれど、修業不足ということで大目に見ていただければありがたい。

母音法について、浅利慶太は以下のように説明しています。

[浅利の知己の音楽家]は、「音」の明晰さは「音量」ではなく「分離」によって生まれると言ったのです。この言葉には大きな刺激を受けました。演劇における台詞にも同じことが言えるのではないかと。そして試行錯誤の結果、「あいうえお」の五つの母音を等間隔に分離して話せば、言葉が明晰に聞こえるとうい結論に達しました。……
他にも幾つかの法則を発見しました。例えば「あしたは雨だ」と言う時、「あしたは」の「は」は「WA」、「雨だ」の「あ」は「A」となり、同じ音ですから重なって聞こえやすい。これを明快にするためには、後ろの「A」の音の共鳴を変化させ、前の音より少し高く発音すれば、分離して聞こえるようになります。これが「同母音共鳴変化の原則」です。
「あしたいく」の「TA」と「Iの場合にも共鳴変化は必要で、この場合は「異母音共鳴変化の原則」となる。また、「行ってくる」「買って来い」などの促音は「ITTE」であって「ITE」ではありません。「いてくる」ではなく「いってくる」と発音するためには、「T」をもう一つ増やし、しかもこれを1つ無声化しなければならない。これが「連子音無声化原則」。「大阪」や「天気予報」は、「おーさか」「天気よほー」というように、しっかり伸ばして発音しないと正しく聞こえません。これを「長音の原則」と言います。他にも、こうした法則をたくさん発見しました。
 これを意識しながら、まず台詞や歌詞を、言葉の土台である「母音」だけで発音し、明晰に母音を分離する感覚を体に入れ込んだ上で、子音に乗せて言葉を発する訓練と技術、これが四季の「母音法」です。

「『ラ・アルプ』特別号 劇団四季創立六十周年に向けて 演出家・浅利慶太インタビュー」6−7頁

私が「子音をはっきり発音する」と書いたのは、ここでいうところの「連子音無声化原則」のことです。「無声化」ですから厳密にいえば「はっきり発音する」わけではないのですが、限られた字数で説明するためにあのような表現になりました。言うまでもなく、ITTEと発音することでITEより一拍遅れます。それが地の台詞の会話でのテンポの悪さの一因になっているわけです。

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Showboat (1936) の演技論

一九三六年版『ショウ・ボート』(ユニヴァーサル・ピクチャーズ)の後半は初演の舞台脚本とも、もちろん一九五一年版のMGM版『ショウ・ボート』とも展開が異なる。

もっとも目立つ違いは、マグノリアのもとを去ったゲイロードが劇場のドアマンになり、彼の勤める劇場でキムが演じることになって、ゲイロード、娘の晴れ姿を見にやって来たマグノリア、そしてキムという親子三人が再会するのが劇場となっていることだ。これは三六年版がバックステージものの要素の比重を重くしていることを示す。

さらに興味深いのは、この場の少し前で、舞台女優を引退するマグノリアがキムに(まるで歌舞伎役者のように)「後を継がせる」ことに決めて、ピアノを引きながら稽古をつけている場(初演舞台にはない)で、以下のような演技論が交わされることだ。マグノリアの母パーシーも同席しているので三人の会話となる。

Magnolia: Kim, darling, don’t you think you’re pressing just a little bit too hard?
Kim: How do you mean, mother?
Parthy: Don’t throw it at them.
Magnolia: Let the audience feel the sentiment of the song for themselves.
Parthy: Remember the folks in the gallery.
Kim: So many things to learn.

マグノリアがするキムへのダメ出しの要点は「押しつけがましくするな」「自分の力で表現しきらず、意図的に表現しない余地を残しておいて、それを観客の想像力に委ねろ」ということだろう。舞台表現に関わる普遍的な真理だとはいえ、俳優は登場人物として感じている内面の感情を歌やダンスのナンバーにのせて百%出し切るべし、というのが本来のミュージカルのイデオロギーであることを考えると少々驚く。

しかも、パーシーは”the folks in the gallery”のことを考えろ、と言う。「天井桟敷の観客」(パーシーは指を上に向けて指し、そのことを示唆する)は見巧者だから、百%出し切るような「クサい」演技をしたら見透かされるぞ、と警告しているのだ。

名優の芸談を読んでいるときに伝わるのにも似た、深い話だ。同時にこれは「直裁に言わず、ほのめかす」近代リアリズム演技のイデオロギーがすでに一九三六年時点でミュージカルの世界にも入り込んでいたことも示している。

ちなみにジュネス企画の日本語版で “don’t you think you’re pressing just a little bit too hard?” の字幕は「思い込みが強すぎるわ」となっており、パーシーの “Don’t throw it at them” は「力を抜いて」と訳されている。当たらずとも遠からず、というような訳だが、字数の制限を考えるとなかなかうまく本質を言い当てていると思う。

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レビュー映画としての『花くらべ狸道中』(六一年・大映)

『花くらべ狸道中』(六一年一月)は『初春狸御殿』(五九年)に続いて大映が市川雷蔵・若尾文子・勝新太郎を起用して撮った作品で、広い意味で「狸御殿」ものの系譜に属するといってよい。ただし監督は木村恵吾ではなく田中徳三なので、通常は「狸御殿」ものの中には数えられない。田中は同年六月に封切りの『ドドンパ酔虎伝』も監督しているが、同年八月封切り『鯉名の銀平』九月封切り『悪名』でわかるように、後年は雷蔵と組んでの「眠狂四郎」シリーズ、勝と組んでの「兵隊やくざ」シリーズが有名で、ミュージカル映画を手がけたのは監督となって駆け出しのこの時期だけのようだ。

『花くらべ狸道中』の脚本は『阿波おどり狸合戦』(五四年・大映)を含む、戦前からの「狸合戦」シリーズ四作を書いた八尋不二だが、物語はそれほど語るに値しない。文福狸(見明凡太朗)を党首とする江戸文福党と、文左衛門狸(葛木香一)を党首とする阿波徳島党が狸王国の総選挙で対立している。前年の六〇年六月には新日米安全保障条約の批准を阻止しようと全学連が国会に突入して樺美智子が亡くなり、十月には浅沼稲次郎日本社会党委員長が日比谷公会堂で演説中右翼少年に刺殺される事件が起こっているから、この当時が「政治の季節」であったことは間違いないが、後述する一点をのぞき、具体的な現実の政治への言及だと思われる箇所はない。もっとも「狸合戦」では(民話にもとづき)阿波国での対立が描かれるのに対し、『花くらべ狸道中』では江戸と阿波という対立軸が導入されるのは興味深い。この頃、東京と地方の利害対立がクローズアップされるような事件があったのだろうか。

文福狸が放った刺客によって江戸へ向かう文左衛門狸が負傷し、名代として雷吉狸(市川雷蔵)と新助狸(勝新太郎)が江戸に赴くことになる。二人はそれぞれ弥次郎兵衛と喜多八という人間に化けるので、弥次喜多ものの要素が取り込まれる(道中ものにする必要があったので、江戸と阿波の対立にしたのかもしれない)。弥次喜多もの同様、面白おかしいエピソードで綴っていく。落語「狸賽」をなぞったりする場面もあるが省略。雷吉をめぐっての恋人たより(若尾文子)と文左衛門の娘しのぶ(近藤美枝子)の恋の鞘当てもあるが、そこら辺も省略。

雷吉と新助はたよりとともに文福に捕らえられるが、たよりが零した涙が真珠に変わり、三人を縛っていた魔法の鎖を消してしまう。それを見ていた文福の娘きぬた(中田康子)が改心して二人を逃がしてやる。文福が待ち受ける会議場に向かう二人。十二時までに文左衛門が現れなければ文福が大王就任が決定することになっている。二人が会議場にたどりつくと、はたして文福が槌を振り下ろして自分が大王となる決定を下そうとしているところだった。だがなぜか文福は振り上げた腕に痛みを感じて動かせなくなる。きぬたが駆け寄り、「こんなことをして大王になれても、誰も幸せになりません」と言って強引に決めようとする父親を翻意させようとする。

ここに反映されているのは、第二次岸信介内閣下のもとでの、社会党議員を国会から排除しての新条約案の強行採決に際して多くの国民が抱いたであろう漠然とした反感だろう。だがもちろん、それは現実の政治にたいする痛烈な諷刺といったものではないことは、その後のご都合主義的な展開で明らかだ。痛みにのたうち回る文福に、雷吉は「過ぎ去ったことは忘れて、仲良く楽しく、ともに栄えていこうと思わんのか」と声を掛け、続けて新助も「それを誓えば神様もきっと許してくださる」と言う。それを受けてきぬたが神に祈り、文福が「神様、助けてください」と叫ぶと、痛みは消える。文福はすっかり反省して雷吉が「本当に仲良くすることを誓うか」と尋ねると「誓う、誓う」と答える。折よく文左衛門が到着し、大王に就任する。リアルポリティックスの力学ではなく、あくまでも「庶民」の「素朴な視点」からの「仲良くやっていく」という思想は神の介入によってのみ実現されうる。

レヴュー映画としてはどうだろう。『花くらべ狸道中』は『初春狸御殿』と同様、大阪松竹歌劇団が出演し、飛鳥亮が振付をしている(厳密に言うと、飛鳥は『花くらべ狸道中』では「舞踊構成」、『初春狸御殿』では「舞踊振付」。後者では別途「振付」として西崎真由美。飛鳥が「和物」の振付のみを担当していたことを示している)。音楽は浜口庫之助。ハワイアン・ジャズ・ラテンといった音楽の素養がありつつ、日本風の旋律を巧みに使ったヒット曲で知られるこの人を起用したことが、「狸御殿」ものの中でこの作品の特筆すべきところだろう。

踊りの場面は七つある。最初は阿波踊りで、雷吉と新助が本物の弥次喜多と出会う場面。雷吉は夢中になって踊っているうちに尻尾を出してしまい化けの皮がはがれる。カメラを傾けるなど踊りのダイナミックさを出している本多省三の撮影が印象的だ。スクリーンショット 2015 03 22 11 29 55

二つ目は「大原女」で、弥次喜多に化けた雷吉と新助が京・三条大橋に到着するとゲスト出演のスリー・キャッツが頭の上に花を入れた籠を載せた大原女の装束で登場し「〽京は宵の町〜」と歌い出す。その背景で大原女と舞妓の格好をしたOSKの人々が日本舞踊を踊る(長唄「大原女」の振付と似ていなくもないが、よくわからない)。スリー・キャッツは放送禁止になった浜口庫之助「黄色いさくらんぼ」(「〽若い娘はウッフーン」)で知られている。浜口とのつながりで起用されたものか。スクリーンショット 2015 03 22 16 13 52

大原女が行き交いした三条大橋を舞台にしたもう一つの理由は、雷吉と新助が泊まる宿屋が池田屋だから。ここで偶然同宿することになった絵描きというのは、きぬたが化けた姿で、二人をおびき寄せる計略だった。むせ返るような色気という形容がふさわしい中田康子が演じるきぬたが歌を歌いながら新助を誘惑する場面では、回転ベッドが使われ、大変エロティックだが、踊り、というほどのものはない。

三つ目の「桑名」では、ロカビリー歌手で初期ザ・ドリフターズのボーカルでもあった井上ひろしが「〽桑名の坊さん 時雨の夜に〜」とお座敷唄「桑名の殿様」をもじったような歌を歌う背景で六人の男性ダンサーが腰蓑を着け櫂をもった漁師姿で踊る。スクリーンショット 2015 03 22 16 10 52

四つ目は「ちゃっきり節」。三島宿三保屋で、堅物の雷吉の度重なる忠告に嫌気がさして別れた新助が、茶摘み娘に扮した芸者の五木みどりたちとともに踊る。この場面の勝新太郎の踊りの、粋で軽みのある仕草は、何度見ても素晴らしい。和製アステア、という存在がいるとしたら、若き日の勝だったろうと思わせる。スクリーンショット 2015 03 22 16 18 54

五つ目は雷蔵と若尾が再開して踊る、ラテン音楽ふうのムード歌謡。雷蔵が一組の大きな白い羽根飾りを両手に携えて登場するのがおかしい。アステア・ロジャースものの映画であれば、ロジャースが持っていたような女性の持ち物だからだ。女性のような細面の雷蔵のクロースアップもあって、その両性具有性が強調される。もっとも後半では片方の羽根飾りを若尾が持って踊る。暗がりで踊る二人は『気まま時代』のナンバー”I Used to Be Color Blind”でのアステアとロジャースを意識していることは明らかだし、頭上からのバークリー・ショットも含め、もっとも一九三〇年代アメリカ・ミュージカル映画を意識させる場面だ。スクリーンショット 2015 03 22 16 24 13

六つ目は勝と中田のナンバー。椅子のつもりで腰掛けたコンガを勝が叩くと、中田がマラカスを振るところからはじまって、もっとあからさまにラテンふうになっている。何度か衣裳やライティングを変えて一つの場面を作るのも当時流行したスタイルだ。スクリーンショット 2015 03 22 16 40 30

そして圧巻なのがフィナーレの「狸踊り」。男性ダンサーたちの力強い踊りからはじまり、やがて女性も加わって四十名を超えるプロダクション・ナンバーとなる。バックダンサーは後段のひな壇に四行×四列で十六人の女性、前段のひな壇には男性十人、女性十人。最後に着物姿の俳優たちが加わる。これまた「ラテン風味」としかいいようのない音楽だが、印象的なのはバックダンサーたちの衣裳。頭に被った帽子からは、田植え女を模したのだとひとまず言えそうだが、派手な色遣いの衣裳と合わせてみると、ヴェトナムの農民がタイ風の民族衣装を纏ったのだと言えなくもない。冒頭で太いリボンを持って踊る男性ダンサーたちの姿を見ると、この時代にはなかった新体操も連想される。東宝が戦時中に東南アジアの民族舞踊を研究したことはよく知られているが、その成果は戦後松竹歌劇団にも取り入れられた、ということなのかもしれない。スクリーンショット 2015 03 22 16 45 30スクリーンショット 2015 03 22 8 58 43

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澤田隆治「平成コメディアン史」タイトル一覧

『ちくま』第四三八号(二〇〇七年九月)から第四六二号(二〇〇九年九月)の全二十五回にわたり連載されていた澤田隆治「平成コメディアン史」。単行本化を願ってそのタイトル一覧を掲げておく。

(1)元吉本興業・木村政雄さんに聞く 『ちくま』第四三八号(二〇〇七年九月)
(2)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(1) 『ちくま』第四三九号(二〇〇七年十月)
(3)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(承前) 『ちくま』第四四〇号(二〇〇七年十一月)
(4)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(3) 『ちくま』第四四一号(二〇〇七年十二月)
(5)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(4) 『ちくま』第四四二号(二〇〇八年一月)
(6)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(5) 『ちくま』第四四三号(二〇〇八年二月)
(7)芦屋雁之助・確かな“ドサ”の芸(6) 『ちくま』第四四四号(二〇〇八年三月)
(8)ダイハツ・ミゼット生CM誕生秘話 『ちくま』第四四五号(二〇〇八年四月)
(9)大阪のテレビ草創期のこと 『ちくま』第四四六号(二〇〇八年五月)
(10)『パッチリ天国』のてん末 『ちくま』第四四七号(二〇〇八年六月)
(11)花登筐さんのこと(1) 『ちくま』第四四八号(二〇〇八年七月)
(12)花登筐さんのこと(2) 『ちくま』第四四九号(二〇〇八年八月)
(13)特別鼎談 大村崑・芦屋小雁 『ちくま』第四五〇号(二〇〇八年九月)
(14)『てなもんや三度笠』を私が降りた理由(1) 『ちくま』第四五一号(二〇〇八年十月)
(15)『てなもんや三度笠』を私が降りた理由(2) 『ちくま』第四五二号(二〇〇八年十一月)
(16)『てなもんや三度笠』を私が降りた理由(3) 『ちくま』第四五三号(二〇〇八年十二月)
(17)花登筐さんと大阪喜劇 『ちくま』第四五四号(二〇〇九年一月)
(18)花登組と芦屋雁之助の昭和三十四年 『ちくま』第四五五号(二〇〇九年二月)
(19)「笑いの王国」旗揚げの裏側 『ちくま』第四五六号(二〇〇九年三月)
(20)「笑いの王国」旗揚げの裏側(2) 『ちくま』第四五七号(二〇〇九年四月)
(21)「笑いの王国」旗揚げの裏側(3) 『ちくま』第四五八号(二〇〇九年五月)
(22)「笑いの王国」解散の事情 『ちくま』第四五九号(二〇〇九年六月)
(23)「喜劇座」結成まで 『ちくま』第四六〇号(二〇〇九年七月)
(24)芦屋雁之助の功績 『ちくま』第四六一号(二〇〇九年八月)
(25・最終回)芦屋雁之助の本望 『ちくま』第四六二号(二〇〇九年九月)

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Orderly Disorder: A 40-Minute Whirlpool Trip That Miss Revolutionary Idol Berserker Cordially Invites All of You To

An English program notes prepared for Miss Revolutionary Idol Berserker’s “MS. BERSERKER ATTTTTACKS!! ELEKTRO☆SCHOCK☆LUV☆LUV☆LUV☆SHOUT!!!!!” toured in Europe in 2013. 革命アイドル暴走ちゃんヨーロッパ公演のために書かれた英文プログラムノート。

Miss Revolutionary Idol Berserker, a Japanese theatre company led by director Nikaidô Tôco, was founded in 2013. It was created shortly after she disbanded the Banana Gakuen Theatre Company (hereafter Banana), which became instantly popular upon its formation in 2008 and earned unanimous critical approval. However, Miss Berserker differs from other experimental performance groups owing to Nikaidô’s unique directional style, the company’s references to Japanese otaku culture, and its use of audience involvement.

Despite being a theatre major at her university, Nikaidô sharply denies she has learned anything important from college, and with good reason. The bizarre shows presented by Banana and Miss Berserker are the sort of performances that conservative theatre educators would not acknowledge as legitimate theatre. Each show is an exercise in veritable chaos. During these performances, fifty hyper-excited men and women in school or military uniforms dance and shout to the deafeningly loud music sampled and remixed from Japanese pop—most of which is either hit songs sung by all-girl idol groups, such as AKB48, or popular anime signature tunes. These songs are belted out while performers make repeated forays to the front of the stage and throw liquids and slimy objects into the auditorium.

If your assumption about the Japanese people is that they are gentle and polite, that perception would have been instantly shattered after witnessing one of the Banana’s shows. The performers were berserkers, frenzied warriors, who not only took center stage but also occupied the whole theatre as they yelled barbarically and incoherently; they were revolutionaries, defying the established notions of what theatrical performances should be and what sort of relationships performers should build with their audiences. These unique performers will also appear in the new, aptly named, Miss Revolutionary Idol Berserker’s shows.

But were and are they really revolutionaries? Some might think so after experiencing such a wild and crazy show. However, the performers’ motions are not as unstructured as they seem; in fact, they are carefully choreographed. The gestures of the cast members are so controlled and disciplined that, some would argue, their uncannily precise mechanical movements are reminiscent of fascist marches—perhaps even North Korea’s mass games. Unlike those in Living Theatre and many other legendary avant-garde companies active in the late 1960s and 70s, Miss Berserker’s members do not seem, at first glance, to be enjoying uninhibited freedom in their performances. Just as fascist marches and mass games in North Korea represent a single dictator’s will and commands, Miss Berserker’s performances are similarly under the rigorous quality control of director Nikaidô. Although cast members can freely bring in choreography, costumes, and props they think fit for the ready-made music during the rehearsal periods, Nikaidô demands that cast members unerringly reproduce the complex patterns and sequences—which she alone composes and coordinates—once performances have begun. In this sense, the performers are dancing and singing robots, merely repeating what they are programmed to do.

Still, despite their regimented movements, the cast members’ transcendental jubilance while performing seems to justify Nikaidô’s exacting method. After all, Miss Berserker’s performers are not so much “artists” who are supposed to express themselves as they are participants in a theatrical rite. They are contributors who share common values and want to achieve a collective ecstasy through Nikaidô’s meticulously prescribed protocol. Furthermore, while many of Nikaidô’s performers are “regulars” who have often appeared in Banana’s productions, not all participants are company members. Instead, interested individuals audition and are selected each time. Despite the harshness of her approach, the competitiveness in auditions and the increasing number of new applicants demonstrates the firm support Nikaidô has received from her would-be cast members.

Another feature that distinguishes Miss Berserker from classical experimental performance groups is its constant references to and borrowings from Japanese otaku subculture, such as its use of anime and idol songs. Although back in the 1980s, otaku was a term referring to introverted geeks or fans who were only interested in their “childish” hobbies, the current trend of fantasizing about fictitious worlds—epitomized by “cosplay,” in which anime and manga fans assume the roles of their favorite fictional characters by wearing their costumes—has since become so powerful and pervasive among Japanese young people that otaku has lost many of its original negative connotations. The video clips, music, choreography, and costumes Miss Berserker employs are pastiches or brazen copies from numerous sources: TV anime programs, girls’ idol groups, comic books, young-adult literature (called “light novels” in Japan), and other well-known figures and characters that young Japanese audiences would instantly recognize. Nevertheless, these appropriated visual and aural images come and go so quickly that audiences can only grasp their phantasmagoric effects. Audiences too old or foreign to share such a collective memory of Japanese subculture in the late 90s through the present may not appreciate them as readily, though they can still enjoy their effects.

Audience involvement—rather than audience participation—is yet another key element understanding Miss Berserker. Structurally rigid, its performances begin with “preset”: a start-up session in which the cast brings props, sets the stage, does warm-ups, and introduces themselves. The preset is then followed by the first medley, after which the performers clean the messy stage and prepare for the second medley. When the second medley ends, the cast scatters into the auditorium seats and lessons in “nerd-style” cheerleading—otagei kôshukai—begin. Each performer gives hands-on lessons to several audience members and teaches them how to cheer for the idols on stage, just as idol otaku sing along, holler, and dance while waving handheld chemical light sticks (an important item for otagei) during concerts. After taking these lessons, audience members are told to repeat the formulaic gestural patterns and shout phrases and to join the performers in cheerleading for Miss Berserker’s primary idol: Nikaidô. By utilizing their own bodies and voices, the audience members get more deeply involved in what they are witnessing and are led to the final phase: “changing places.” During this phase, the cast invites audience members to come onstage, sometimes taking them by the hand.

After completing this transfer, the performers go to the auditorium and leave the audience members on stage doing what they like. This technique is designed to literally demonstrate that the cast and audience members are interchangeable. The “changing places” phase of Miss Berserker’s performances is designed to harken back to the genesis of theatre, the festivals and carnivals of old, during which every member of the community was a participant and enjoyed the temporary subversion of the established order. Consequently, in the Miss Berserker performances, audience members are expected to abandon any hope of taking a critical distance to observe what they see and hear; instead, they should just sing, dance, and enjoy the show with and as the members of the company. 

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第一劇場の『マツ』(一九二九):逆輸入版の「寺子屋」

『菅原伝授手習鑑』(寺子屋)は忠義のために自分の息子を殺すというその内容ゆえにか、20世紀前半にドイツをはじめとする欧米各国で翻訳され、上演された。またM・C・マーカスによる英訳台本「マツ」は1929年9月に大阪・浪花座において(新機軸を好み「西の左團次」と称された)三代目阪東壽三郎(1886-1954)が結成した第一劇場によって「逆輸入」上演がなされた。その翌月も、東京本郷座において友田恭助によって「テラコヤ」として上演されている。

十年近く前、当時東京文化財研究所にいた児玉竜一(早稲田大学教授)から提供を受けた音源をこのたび漸くデジタル化したので、第一劇場の新旧合同俳優(以下を参照)による吹き込み録音を公開する。「私はつれない松の木だったでしょうか」「私がどんなに悩んだか考えてみてください」「あの子はわれわれの名誉の救い主だ」のような直訳調の台詞が多く、現在の私たちには滑稽に感じられるが、異物感のある、ゴツゴツした物言いが当時は新鮮で、歌舞伎の旧弊依然とした台詞回しを打破するものだと考えられていたのだろう。

ガンゾウ[武部源蔵] 藤村秀夫
トナアミイ[戸浪] 三好栄子
マツオオ[松王丸] 阪東壽三郎(三代)
チイヨオ[千代] 石河薫(初代)
ゲンバ[春藤玄蕃] 山口俊雄

SPレコード二枚四面に録音されていたものを以下の四つのファイルにした。同じ音源は飯塚恵理人(椙山女学園大学教授)の「恵理人の小屋」でも(花柳章太郎・梅島昇ら新派による小山内薫『塵境』「水車小屋の場」とともに)公開されている。ご専門の能楽・謡曲のほか、コレクター辻山幸一の音源を譲り受けての新派劇・新内・歌舞伎・喜劇・義太夫など膨大な数のSPレコードからのデジタル化音源が公開されているが、録音状態が悪いものもあり、『マツ』については今回公開するもののほうが聞きやすいと思う。

  1. 『マツ』第一部A面
    洋楽器による和物旋律によるイントロ。妻のトナアミイとの会話のなかで、ガンゾウが内面の苦悩を吐露する。
  2. 『マツ』第一部B面
    洋楽器による和物旋律によるイントロ。マツオオ・ゲンバがガンゾウにカンシューザイの首を差し出せと迫る。マツオオとガンゾウは「僕」「君」と呼びあう。洋楽。計略がうまくいったガンゾウは「神々よ、また偉大なブッダよ、感謝します!」と叫ぶ。
  3. 『マツ』第二部A面
    チイヨオが玄関の鐘を鳴らし「新入生の母親でございます。うちへ入らせて下さいまし」と言って登場。正体を明かせとガンゾウが迫ると「梅は飛び桜は枯るる…」と言いながらマツオオ登場。ヘンデル「オンブラ・マイ・フ」をBGMに、「ご主君の仇、トキイヘイラの味方に私を誘惑した運命」を呪うマツオオ。「私はすぐに親愛な妻に相談して、あの子を神々と、あなたにお任せしたのです」と言って絶句。
  4. 『マツ』第二部B面
    「オンブラ・マイ・フ」をBGMにマツオオの述懐が続いたあと、チイヨオの嘆き。グノー「アベ・マリア」をBGMに「ごめんなさいガンゾウ、私は涙を抑えることができない」とマツオオが言うとガンゾウが自分たちが葬式を出すという。それに答えてマツオオ「私の妻と私が、この義務を果たすことを許して下さい。なぜなら友よ、これはわが子ではありません。これはプリンス・シューザイさまです」(最後の部分、マツオオとガンゾウの声の違いが分かりにくいが、内容から考えて二人が切り替わっているはず)。

『マツ』第一部B面で藤村秀夫のガンゾウは「余計なお節介だッ」とヒステリックに声を震わせて叫ぶが、これが当代の我當そっくり。偶然声質が一致しているだけかもしれないが、関西新派から関西歌舞伎に引き継がれた伝統なるものもあるかもしれない。

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渋谷天外の筆名について

大槻茂『喜劇の帝王 渋谷天外伝』(小学館文庫・一九九九年)は浩瀚な資料を渉猟し、遺族や松竹新喜劇・家庭劇関係者にも丹念に取材した労作だが、三代目天外に直接取材したとおぼしき箇所では三代目天外の誤解を鵜呑みにして書かれているところもある。具体的には以下の記述。

三代目天外は父の死後、自宅に残されていた脚本類を得意のパソコンを駆使して整理した。昭和五十八年十二月一日現在、脚本の数は原作、合作、脚色などを含めて五百五十六本にのぼっている。原作は三百六本あり、館直志、渋谷一雄、川竹五十郎、志賀里人、山田青風、河井新、新城稔の八つのペンネームで書かれている。川竹五十郎の川竹は初代天外のペンネームの姓で、名は居候の身をもじった(※)。志賀里人は志賀廼家淡海のために書いた脚本のペンネーム。新城は妻・喜久栄の縁戚の姓、山田青風の青風はその新城の俳号という。渋谷家には残っていないが、池田の和田家にちなんだ大和田想外の名で書かれた脚本もある。

『喜劇の帝王 渋谷天外伝』六九—七〇頁。

まず志賀里人だが、『わが喜劇』に「<家庭劇>はその名が示すように、従来の喜劇に、ややホームドラマのような味を加えたもので、茂林寺文福さんこと十吾さんを助けて、私も詩賀里人のほか、川竹五十郎、館直志などのペンネームで、脚本を書きまくったものである」(渋谷天外『わが喜劇』[三一書房、一九七二年]四六頁)とあるように、「志賀廼家淡海のために書いた脚本のペンネーム」とまではいえない。一九二八年九月(一日初日)角座での松竹家庭劇旗揚げ公演の際、「真心」「玉子」「猫の目」、二の替わりの「軽石」「青い眼鏡」が茂林寺文福との共作としてあげられている。ただし天外はまず一九二二年十一月に志賀廼家淡海劇に「脚本七分の役者三分」(『わが喜劇』四二頁)の約束で加入したので、詩賀里人はその時以来のペンネームである、という可能性はある。

次に大和田想外だが、これは別人だろう。というのは一九一七年七月(一日初日)中座の曽我廼家五郎一座の番附(阪急池田文庫蔵)の演目に「大和田想外案 一堺漁人脚色 背負投」があるからだ。天外は一九〇六年生まれだし、五郎と直接面識はないようだから、これはあり得ない。大和田想外は一九四〇年一月大阪歌舞伎座の松竹家庭劇公演の番附に「脚本部」として(茂林寺文福・館直志・尾崎倉三・高須文七とともに)載せられているから、家庭劇の関係者でもあったのだろうが、『大阪弁』第三集(一九四九年)に「五郞の生涯」という随筆を載せているので、もとは五郎劇に属していたことがわかる。

なお、引用に「池田の和田家にちなんだ」とあるのは、処女作「私は時計であります」の原稿を天外から譲り受けて保存していた大阪府池田市在住の和田富美枝のことで、大槻によれば「和田家は代々、兵庫県一帯にたばこを卸す豪商だった。松竹家庭劇の座員たちは、和田家から物心両面にわたるかなりの援助を受け、親しくしていた。天外より六歳年下の富美枝は、芝居好きだった祖母、両親を介して女学生のころから天外を知っていた」(『喜劇の帝王 渋谷天外伝』六四頁)。大和田—和田という(誤った)連想は誰のものであったのか、この記述だけではわからないが、おそらくは三代目天外のものだったのではないか。五郎の本名は和田久一だから、大和田はそちらと関係があるのかもしれない。

※「早稲田大学演劇博物館上演記録データベース」では川竹五十郎の読みが「かわたけごじゅうろう」となっているが、上記の記述から「かわたけいそうろう」が正しいことがわかる。

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